■遣唐使の廃止=国風文化?

平安時代のいわゆる国風文化については、次のように学校で習った、あるいはどこかで見聞きした情報として覚えている、という方も多いのではないでしょうか。

「遣唐使の廃止によって、中国からの文化の流入が途絶え、それをきっかけにして日本独自の文化、すなわち国風文化が生まれた」

これはもっともな説明なのですが、実はこの説には現在、研究者の間で疑念が持たれています。


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平城京天平祭の遣唐使船

この説の疑わしい点は遣唐使は本当に廃止されたのか? 廃止されたとすればそれはいつからか? という二点です。

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■「894(白紙)に戻す」の経緯

もともと遣唐使は、回数的にはそれほど多く行われていたわけではありません。

630(舒明2)年の第1回遣唐使(犬上御田鍬)に始まり、その後は中止となった3回を除くと、諸説ありますが教科書では18回派遣があったとしています。

そして、遣唐使を廃止することについては、かの菅原道真が894(寛平6)年に宇多天皇に建言したことで実現したとされています。

「ハクシ(894)に戻す遣唐使」などという語呂合わせで暗記した方も多いのではないでしょうか。

遣唐使の廃止と国風文化の発展は関係ない?「894(ハクシ)に戻す遣唐使」は現代の通説ではない【前編】


菅原道真の像

しかし、この時の状況については注意が必要です。もともと宇多天皇が遣唐使の派遣を決めたのは、その時点でなんと56年ぶりのことだったのです。それに菅原道真が異を唱えたわけです。

56年といえば、前回遣唐使が実施された時の宮中の関係者はほぼ死去していると考えてもよいくらいの年数で、ここではすでに半世紀以上、公的機関での唐との交流は途絶えていたのです。

菅原道真が遣唐使の廃止を建言した理由ははっきりしており、書状の中で以下の理由を挙げています。

「唐は内乱状態にあって、しかも唐との交流は途絶えている」
「記録によると航海途上の危険はあったが唐に渡ってからの危険はない、とされているが、現状は唐に入ってからも危険」
「公卿や学者は検討をしてほしい」

実は過去にも、遣唐使の派遣が決定されたものの、中止となったことがありました。894年もそれと同じような状況だったと考えると、これは「廃止」ではなく「中止」だったと考えるべきでしょう。


そして、結果として遣唐使は再開されないまま唐が滅んでしまいました。

そうした流れがあるため、現在教科書では遣唐使の廃止という表現は採らず、全て遣唐使の停止と表記するように変わっているのです。

■きれいには割り切れない

こうして見ていくと、私たちが今までの歴史教科書によって漠然と思い描いていたイメージも変わってくるのではないでしょうか。

今までは、「遣唐使の派遣は頻繁に行われており、それによって中国(唐)の文化がたくさん入ってきた。そしてそれをスパッと廃止したことで、日本独自の文化(国風文化)が育つことになった」というイメージだったと思います。

遣唐使の廃止と国風文化の発展は関係ない?「894(ハクシ)に戻す遣唐使」は現代の通説ではない【前編】


菅原道真像(菊池容斎『前賢故実』巻第五より・Wikipediaより)

しかし実際には、もともと遣唐使の派遣はそれほど頻繁ではなく、停止することもあれば、50年以上も間が空いてしまうこともあったのです。

よって「唐からの文化が頻繁に輸入されていた時期」と「唐からの文化輸入が途絶えた時期」がきれいに割り切れるとも言えないのです。

さらに言えば、そもそも894年以降、「唐からの文化輸入」は本当に途絶えていたのか? という問題も残ります。

【後編】では、ここまでで説明した菅原道真の建言によって、そもそも遣唐使は停止されたのか、「唐からの文化輸入」は途絶えたのか? という点を見ていきましょう。

【後編】の記事はこちら↓

遣唐使の廃止と国風文化の発展は関係ない?「894(ハクシ)に戻す遣唐使」は現代の通説ではない【後編】
遣唐使の廃止と国風文化の発展は関係ない?「894(ハクシ)に戻す遣唐使」は現代の通説ではない【前編】


参考資料:
浮世博史『古代・中世・近世・近代これまでの常識が覆る!日本史の新事実70』2022年、世界文化社

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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