江戸時代の幕藩体制が、大名の統制と幕府の職制の整備によって確立されました。大名の統制について言えば、彼らは親藩・譜代・外様の三つに分けられ、それらの配置も幕府によって決定されました。
実際、江戸の周辺や政治の要衝には徳川氏の一族の大名(親藩)や家臣の大名(譜代大名)が配置されています。
二代目将軍・秀忠の時には、関ヶ原の戦いで功績があった大名も武家諸法度に基づいて改易され、諸大名への統制に関して権能を示しています。
また、三代目将軍・家光のときには参勤交代が義務づけられたり、大きな船の建造が禁止されるなどしました。
徳川家光(Wikipediaより)
今回のテーマは、前述の「外様大名」の正確な定義についてです。
■基準は関ヶ原の戦い
外様大名についてよく言われるのは、かつての関ヶ原の戦いの後で徳川家に臣従した大名を親藩・譜代と区別したものだということです。

関ヶ原古戦場の徳川家康最後陣跡(岐阜県)
しかし、関ヶ原の戦いで東西陣営に属した大名を見ると、決してそうとは言えないことが分かるでしょう。例えば東軍で活躍した大名である黒田・福島・浅野・細川・藤堂・池田などはみな外様大名となっています。
単純に、もともと豊臣氏の家臣で徳川氏側に立って戦った大名が外様大名となった、と説明した方が分かりやすいと言えるでしょう。
このことから最近の教科書では、関ヶ原の戦いの前後の状況だけを問題にせず、「関ヶ原の戦いをきっかけに」などと含みをもたせた表現をするようになっています。
もともと「外様」という表現は、すでに武家社会の中では鎌倉時代頃から使用されていた言葉です。一族(御身内衆)や古くからの家来(譜代衆)に対して外様衆と呼ばれた武士団が、当時から存在したのです。
外様衆に属する武士団は、戦いのときだけその都度味方をする者たちのことでした。
■豊臣から徳川へ
そもそも関ヶ原の戦いは、いわば豊臣家臣団の勢力争いとでもいうべき内紛でもありました。
徳川家康は、同じ豊臣家の家臣団の諸大名を率いて「盟主」として戦っただけですから、主従関係にはなかったわけです。
実際、関ヶ原の戦いの恩賞は豊臣秀頼の名で行われており、戦後も家康はまだ豊臣政権内の主宰者という立場でした。

徳川家康像
武家の主従関係でいうならば、1603(慶長8)年に家康が征夷大将軍に任じられて以降、もともと豊臣氏の家臣であった大名が、徳川家の「外様衆」となったというべきでしょう。
さらに言えば、外様衆にも適用される参勤交代を制度化したのは徳川家光なので、明確に外様衆が徳川氏の臣下となったと言えるのはこの時からでしょう。
参考資料:
浮世博史『古代・中世・近世・近代これまでの常識が覆る!日本史の新事実70』2022年、世界文化社
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan