宇都宮氏の分家、豊前宇都宮氏出身の城井鎮房(きい-しげふさ)。

鎮房は怪力無双で強弓の使い手として知られています。


また、黒田官兵衛と長政に抵抗した末に一族と家臣もろとも謀殺という悲しい結末を迎えた人物でもあります。

そのような人物ではありますが、知名度の低さから知らない方も多いのではないでしょうか。

そこで今回は鎮房一族と家臣団に訪れた悲劇的な最期と鎮房の生い立ちを同時にご紹介します。

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城井鎮房/Wikipediaより

■豊前宇都宮氏の始まり

戦国時代の容赦なき粛清…黒田官兵衛・長政親子に一族と家臣もろとも謀殺された武将・城井鎮房の悲劇


宇都宮信房/Wikipediaより

城井氏こと豊前宇都宮氏は、宇都宮氏の祖である藤原宗円の子・中原宗房が豊前国仲津郡城井郷に地頭職として赴任したことが始まりと言われています。

その後、宗房の子・宇都宮信房が豊前守護として豊前国に城井谷城を築城すると、最盛期を迎えます。

鎌倉幕府内で幕府評定衆や九州四奉行といった重職に任じられ、九州の武士たちを管理する役割を追いますが、南北朝時代になると衰退。大内氏に従属する形で生き延びてきました。

■先祖伝来の地を守るため、秀吉から不評を受ける

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豊臣秀吉/Wikipediaより

天文6年(1536)、城井長房の子として鎮房は誕生しました。そして、誕生から十数年後に起きた下野宇都宮氏の内紛が勃発。

父の長房は熱心に介入したことによって、早い段階で領国の管理を任されていました。

そのような状況の中で大内義隆から大友宗麟に従属し、大友氏の勢力が衰えると島津義久に鞍替えし、上手く生き延びました。

しかし、天正14年(1586)に豊臣秀吉による九州征伐が勃発すると、秀吉のもとで戦います。
にも関わらず、鎮房本人は出陣しなかったことで、秀吉から不信感を買いました。

それが要因かは不明ですが、九州征伐後に鎮房は伊予国への移封と藤原定家が残した小倉色紙の引き渡しを命じられました。

本来であれば、家を守るために秀吉の要求を受け入れるかと思ってしまいますが、鎮房は先祖伝来の土地と大切な家宝を守るために要求を拒否します。

この事態を重く見た毛利勝信によって、鎮房は移封後に秀吉に本領安堵の嘆願をする形で要求を受け入れました。

■城井谷城奪還

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黒田官兵衛/Wikipediaより

しかし、度重なる無礼を秀吉は許さず、鎮房の嘆願を拒否。これを不服と感じた鎮房は、新領主となった黒田官兵衛が治める豊前国に侵攻し、自らの居城・城井谷城を奪還します。

鎮房の行いに秀吉は黒田長政率いる軍を差し向けます。この戦いは岩丸山の戦いと呼ばれており、地の利を活かしたゲリラ戦法で豊臣軍を圧倒しました。

そして、鎮房の娘・鶴姫を人質に出すことと本領安堵を条件にこの戦いは幕を閉じました。

■長政によって悲惨な最後を迎える

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黒田長政/Wikipediaより

これで一件落着かと思いきや、長政は鎮房のこれまでの行いから再度反旗を翻す可能性があるとして、城井一族の根絶やしを決断します。

天正16年(1588)に鎮房は、長政が主催する酒宴の招待を受け中津城へ。この時、鎮房の家臣たちは城下の合元寺にて待機させられました。


これは官兵衛の策略で、家臣たちと切り離された鎮房は酒宴の場で謀殺される最後を迎えました。

また、合元寺にいた家臣たちも黒田家の家臣たちとの斬り合いの末、全滅しました。

あまりにも悲惨な最後だったことから、本来白だった合元寺の壁が城井家家臣たちの血痕が何度塗っても浮かんでくるため、赤に塗り替えたとの伝承が残っています。

■父も子も娘も悲劇を迎える

鎮房の死を受けて、嫡男の城井朝房は肥後国人一揆を共に対処していた官兵衛によって暗殺。父の長房は城井谷城に攻め寄せた黒田勢によって殺害されました。

さらに、人質となっていた鶴姫も、長政の手によって13人の侍女と共に千本松川原(現在の福岡県築上郡吉富町小犬丸)にて磔刑に処されました。

こうして、黒田親子によって徹底的に粛清された城井一族でしたが、朝房の遺児・宇都宮朝末の孫が越前松平家に召し抱えられたことで血は絶えずにすんでいます。

■城井一族の祟りは末代まで続いた

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福岡藩12代藩主・黒田長知/Wikipediaより

しかしながら、家を守るためとは悲惨なまでに一族家臣を謀殺した鎮房の黒田家への怨念は強く、度々鎮房の霊が中津城に現れ、長政を恐怖させました。

官兵衛も強弓の使い手だった勇将を謀略で殺害してしまったことを後悔し、鎮房を祀るための城井神社を中津城に建立したほどです。

しかし、長政死後にお家騒動の黒田騒動が勃発。さらには、長政の玄孫で福岡藩6代藩主の黒田継高の代で、時期藩主となりうる跡継ぎ2人を在任中に亡くした上に継高の孫も夭折したことで、官兵衛からなる黒田本家の血筋は断絶しました。

その後も歴代藩主たちは後継ぎを決めずに亡くなったり、後継ぎが先立たれたりと後継者問題に悩まされ続けます。


また、12代藩主の黒田長知が知藩事を解任する事態も起こり、長政の時から黒田家に相次いで起こった不幸は、城井一族の祟りや報復ではないかと噂されるまでになりました。

■一族の滅亡で失われてしまった伝統技術…

戦国時代の容赦なき粛清…黒田官兵衛・長政親子に一族と家臣もろとも謀殺された武将・城井鎮房の悲劇


神功皇后/Wikipediaより

また、城井一族には艾蓬(がいほう)の射法という神功皇后が三韓討伐の際に用いた秘法が、豊前宇都宮氏の遠祖である藤原道兼から当代まで受け継がれていました。

艾蓬の射法は、吉凶の占いや戦勝祈願に使用される弓術儀式で一子相伝のため、当主以外はできませんでした。

そのため、豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に艾蓬の射法を執り行おうとしましたが、この時期には鎮房もしくは朝房が暗殺されていたので、艾蓬の射法の断絶を知った秀吉は深く後悔したと言われています。

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