今回は明治時代に作られた大日本帝国憲法が成立するまでの経緯と、それにまつわる誤解について解説します。
かつての日本史の教科書には、「大日本帝国憲法は君主権の強いドイツの憲法を手本とした」という表記がなされており、あたかも大日本帝国憲法のモデルがドイツの憲法だったかのように記述されていたものです。
では、具体的に当時のドイツはどんな国だったのでしょうか。
ドイツ統一を実現したビスマルクの銅像
そもそも当時のドイツはヨーロッパの一地方名を示すような呼称で、神聖ローマ帝国という巨大な枠組みの中で、領邦と呼ばれた小国家が集合していた地域でした。
それぞれの領邦は独立性が強く、各々が抱える国内事情や歴史的背景の違いから、一つにまとまることはありませんでした。
より具体的に言えば、カトリックかプロテスタントか、フランスとの経済的繋がりが深いか、東欧との繋がりが深いかなどによって、各国の内実は異なっていたのです。
1840年代には経済的にまとまって統一をはかろうとする動きも見られましたが、頓挫してしまいます。
■明治政府と共に近代化へ
しかし、1850年代にナポレオン3世がフランスを軍事大国化し、1860年代にサルディーニャ王国がイタリア王国を成立させると、ドイツでも近代化と統一の機運が高まります。

ナポレオン3世(Wikipediaより)
周囲に強国が生まれたことにより、分裂したままの状態だと併呑されるおそれがあったからです。
しかし、伝統的な大国オーストリアを中心にまとまるか、東方の新興国プロイセンを中心にまとまるかで領邦間で対立が見られるようになり、いろいろな曲折の後、プロイセンがオーストリアを戦争で破り、プロイセン中心のドイツ統一が進むことになりました。
日本国内では明治維新が始まり、廃藩置県が実施されて中央集権国家建設への道を歩み始めていた頃でした。ちょうどその時、プロイセンはナポレオン3世を戦争で破り、ドイツ帝国を成立させていたのです。
プロイセンの首相にして、ドイツ統一を実現して宰相となったのが、かのオットー・フォン・ビスマルクです。
■「いいとこどり」でツギハギ状態
強大な君主権と軍事力を背景に統一を実現したドイツ帝国が、日本の近代国家建設のお手本の一つになったのは当然です。
実際、岩倉具視使節団はヨーロッパを歴訪してビスマルクとも面会し、レセプションでの演説などを詳細に記録しています。

岩倉具視使節団(Wikipediaより)
しかし、だからと言って「当時の日本の政治制度はみなドイツを見習ったのだ」と考えるのは誤りです。
当時の岩倉具視使節団は、ドイツに限らず欧米諸国は日本よりも優れているという観点から、大国のみならず小国からも雑多にさまざまな情報を取り入れていました。
しかしあれもこれも取り入れたせいで、政治制度改革は迷走といっていいほどの試行錯誤を繰り返したのです。
例えば昔の太政官制を復活させてみたり、アメリカ合衆国を手本とした政体書を出して三権分立の制度を作ろうとしたり、フランスの警察制度を採用しようとしたり、地方行政の制度はドイツを模範にしようとしたり……といった具合です。
当時の日本で考えられていた政治体制は、欧米諸国からの「いいとこどり」を図った末のツギハギだらけのものだったのです。
では、実際に憲法が成立するまでの流れで、ヨーロッパの政治制度は具体的にどのような影響を与えたのでしょうか。それは【後編】で見ていきましょう。
【後編】の記事はこちら↓
大日本帝国憲法は「ドイツの真似」ではない?欧米の政治制度からの脱却を試みた伊藤博文たち【後編】

参考資料:浮世博史『古代・中世・近世・近代これまでの常識が覆る!日本史の新事実70』2022年、世界文化社
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan