明治時代、日本は新しい政治体制のあり方を模索して、欧米諸国の諸制度をなんでもかんでも取り入れようとしました。その結果ツギハギだらけの状態になったことは【前編】で説明した通りです。
「大日本帝国憲法」はドイツの真似ではない!?欧米の政治制度からの脱却を試みた伊藤博文たち【前編】
しかし明治政府も、やがて日本にマッチした着地点を探していくようになります。また、条約改正の失敗や自由民権運動の高まりもあって、近代的な政治制度の確立を急ぐようになったのです。
伊藤博文がヨーロッパへ憲法の研究に出かけたのには、こうした事情もありました。
伊藤はドイツで法学者グナイストを訪ねて、ベルリン大学で法律と政治制度の教えを受けました。また、同行した井上毅はドイツの政治制度に感心し、伊藤にドイツ型の改革を強く勧めるようになります。

井上毅(Wikipediaより)
ところで伊藤は皇帝ヴィルヘルム1世に謁見したとき、皇帝のおもしろい呟きを耳にしました。「憲法などつくらなければよかった。おかげで何も自由にできなくなった」というのです。
この呟きから、憲法は行政が守るべき規範であり、それはつまり行政権を制限するものであると伊藤は理解しました。
■オーストリアの学者の憲法観
また、伊藤はドイツ帝国の隣国オーストリアでも憲法を学ぼうとし、ウィーン大学の法学者ローレンツ・フォン・シュタインを訪ねます。

ローレンツ・フォン・シュタイン(Wikipediaより)
この時、シュタインは「憲法とは一国の支柱となるべきものである。その根幹を作るのなら、自国の文化や歴史を踏まえないといけない」と教えました。
シュタインの憲法観から大きな示唆を受けた踏まえ、ドイツの政治制度にこだわる井上に対して「ドイツの煮法は日本にそぐわぬ部分が多くある。鵜呑みにしてはならない」と言っています。
こうして伊藤は、大日本帝国憲法及び内閣制度を、ドイツ以上に君主権(行政権)の強いものにする意思を固めたのでした。ドイツにこだわらずいろいろな国の君主権(行政権)の強い項目を大日本帝国憲法に反映させたのです。
では、その結果どうなったでしょうか。
■フランスの制度も採用
伊藤はドイツの憲法を研究していく過程で、その原型のフランス憲法にたどり着きます。その結果、ドイツの純粋な模倣ではなく完全なフランス式でもない、独特の憲法と政治制度ができあがることになりました。

伊藤博文像
例えば大日本帝国憲法で採用された「君主は神聖である」というような表現(天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス)はドイツ憲法にはありません。これは1814年6月にフランスのルイ16世が発布した欽定憲法を手本としています。
また、伊藤らは日本の帝国議会を衆議院と貴族院の二院制にしましたが、ドイツは帝国議会と連邦参議院の二院制です。
そして、ドイツの帝国議会の議員は普通選挙で選ばれましたが、よく知られている通り、日本の衆議院議員は直接国税15円以上の納税者という厳しい制限選挙でした。これも前述したフランスの王政復古時の1814年憲法並みの制限選挙です。
そして大日本帝国憲法では、首相はあくまでも他の大臣と対等です。他の大臣への指揮権もなければ任免権もありません。
そもそも大日本帝国は連邦制でもありません。
かつての教科書で説明されていたように「大日本帝国憲法は単純にドイツ帝国の憲法を手本にした」と覚えてしまうと、明治維新の複雑な政治的背景や、当時の国際関係を誤解してしまうことになるでしょう。
参考資料:浮世博史『古代・中世・近世・近代これまでの常識が覆る!日本史の新事実70』2022年、世界文化社
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