第25回放送「決意」では、藤原道長(柄本佑)と一条天皇(塩野瑛久)の板挟みになって苦悩する藤原行成(渡辺大知)の姿が印象に残っています。
大河ドラマ「光る君へ」公式サイトより ©NHK
蔵人頭として日々激務に追われていた行成にとって、長徳4年(998年)は特に大変な1年でした。
果たしてどんな1年だったのでしょうか。
■疫病に感染

菊池容斎『前賢故実』より、藤原行成。
長徳4年(998年)は劇中でも言及されていた通り、火事に疫病に嵐に洪水と様々な災難に見舞われました。
6月から7月にかけて赤斑瘡(あかもがさ。麻疹)や稲目瘡(いなめがさ。赤疱瘡)が大流行します。
疫病退散のために一条天皇が大赦(罪刑を減免して天下に徳を示す)を行いますが効果はなく、7月16日には行成自身が感染してしまいました。
行成は蔵人頭として一条天皇の側近く仕えていたことから、周囲の者たちにも次々と感染が広がります。
劇中では民の苦しみも顧みず、優雅に楽しんでいましたが、実際は死の恐怖に戦々恐々としていたことでしょう。
閏7月から9月にかけては鴨川の氾濫や堤防の決壊など、京都じゅうが水びたしになる有様でした。
そんな混乱が続く10月、行成は我が子を喪います。
■我が子の死に目にも会えない

井上探景「教導立志基 大納言行成」
子供は長徳3年(997年)に生まれたばかりの2歳男児で、容貌がはなはだ美しかったそうです。
父の病が感染したのか、それとも元から病弱だったのか、力なく母の源泰清女(やすきよの娘)に抱かれていました。
行成はそばにいてあげたいけど、もし子供が死んでしまうと、死穢(しえ。死のケガレ)によって参内できなくなってしまいます。
蔵人頭である自分がそんなことになったら、朝廷の政は停滞してしまうでしょう。
災難が相次ぐ中でそんな事態に陥ったら目も当てられません。
どうしたものか、せめて気配が感じられる庭先に立ち尽くす行成。同じ屋内にはいられなかったのですね。
何とか回復してくれないものか……そんな願いも虚しく、男児は世を去ってしまいました。
母親の泣き声で、それと悟ったのです。いますぐ我が子を抱きしめたい思いをこらえ、行成は死穢を避けて喪があけるまで別宅から参内したと言うことです。
■終わりに

冷泉為恭「冷泉為恭筆藤原行成像」
かくして民を救う激務に追われながら、行成の長徳4年(998年)は過ぎ去っていきました。
翌長徳5年(999年)1月13日、朝廷ではあまりの「長毒」に耐えかねたように改元。
NHK大河ドラマ「光る君へ」では描かれませんが、行成にはこんなことが起きていたと思うと、いっそう彼を贔屓したくなりますね。
※参考文献:
- 倉本一宏『平安京の下級官人』講談社現代新書、2022年1月
- 黒板伸夫『人物叢書 新装版 藤原行成』吉川弘文館、1994年2月
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