藤原済時の娘NHK大河ドラマ「光る君へ」皆さんも観ていますか?
藤原 娍子(ふじわらのすけこ)
朝倉 あき(あさくら・あき)
藤原済時(ふじわらのなりとき)の長女。居貞親王(いやさだしんのう)のもとに東宮妃として入侍(にゅうじ)。
※NHK大河ドラマ「光る君へ」公式サイト(登場人物)より
一条天皇の春宮(とうぐう。皇嗣)となった居貞親王(のち三条天皇)の妃・藤原娍子(ふじわらの せいし/すけこ)。彼女はどんな女性だったのでしょうか。
朝倉あきさん演じる藤原娍子(「光る君へ」公式サイトより)
今回は藤原娍子の生涯をたどってみたいと思います。
■誕生から皇后となるまで

三条天皇(画像:Wikipedia)
藤原娍子は天禄3年(972年)に藤原済時(なりとき)と源延光女(のぶみつのむすめ)の間に誕生しました。
父から箏(琴)の手ほどきを受け、名手として知られたそうです。
年頃になると、はじめ花山天皇から入内の要請がありましたが、済時はこれを辞退。大事な娘に何をされるか分からない不安があったのでしょうか。
そんな事もあって、21歳となった正暦2年12月1日(992年1月8日)に居貞親王の元へ入侍し、春宮妃となります。
美貌で親王からの寵愛も深く、敦明親王(小一条院)はじめ四男二女に恵まれました。
藤原娍子の子供たち
- 敦明親王(あつあきら)
- 敦儀親王(あつよし)
- 敦平親王(あつひら)
- 当子内親王(とうし/まさこ)
- 禔子内親王(しし/ただこ)
- 師明親王(もろあきら)
当時は父親が生きて(かつ現役で)いることが出世における死活問題。
居貞親王の寵愛だけが恃みでしたが、寛弘8年(1011年)に居貞親王が皇位を継承すると娍子は女御となります。
その住まいから宣耀殿女御(せんようでんのにょうご)と呼ばれた娍子は、寛弘9年(1012年)に従四位下、ついで皇后となりました。
この辺りが人生の絶頂だったと言えるでしょう。
■道長からの圧力に苦しむ

藤原道長(画像:Wikipedia)
しかし娍子の栄華は永く続きません。
三条天皇の即位以前の寛弘7年(1010年)に、あの藤原道長が次女の藤原妍子(けんし/きよこ)を送り込んでいたのです。
三条天皇が即位すると女御となり、やがて中宮となりました。
皇后の娍子と中宮の妍子が対立する形となり、後ろ楯のない娍子は三条天皇の寵愛だけが頼りの危うい立場に置かれます。
その三条天皇も眼病を患うなど健康面に不安があり、道長から絶えず譲位するよう圧力をかけられ続けていました。
「……分かった。敦明(あつあきら。第一皇子)を春宮にしてくれるなら譲位しよう」
「分かりました。
道長の圧力に屈した三条天皇は長和5年(1016年)、敦成親王(あつひら。一条天皇の第二皇子)に譲位します。
敦成親王の母親は道長の長女・藤原彰子(しょうし/あきこ)。かくして天皇陛下の祖父となった道長は権力の絶頂に至りました。
「それでも、次代は敦明が皇位を継承するから……」
と希望を捨ててはいませんでしたが、寛仁元年(1017年)に三条上皇が崩御すると、道長は敦明親王に圧力をかけたのです。
「春宮の座をご辞退なさいませ……!」
後ろ楯を持たない敦明親王は、泣く泣く春宮の座を辞退させられてしまったのでした。
失意の娍子は三条上皇の菩提を弔うために出家し、万寿2年(1025年)3月25日に54歳で崩御。亡骸は宇治御陵に葬られます。
■終わりに

三条天皇と娍子(イメージ)
今回は三条天皇の皇后である藤原娍子について、その生涯をたどってきました。
若くして後ろ楯を失い、三条天皇の寵愛を恃みに生きてきた彼女は、常に道長の圧力を感じながら心細い日々を送ったことでしょう。
果たしてNHK大河ドラマ「光る君へ」では、どう描かれていくのか、これからの活躍が楽しみですね!
※参考文献:倉本一宏『三条天皇 心にもあらでうき世に長らへば』ミネルヴァ書房、2010年7月
トップ画像:大河ドラマ「光る君へ」公式サイトより
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