稀代の英傑であり、家臣に厳しく隙のない性格だったと想像されがちな織田信長ですが、そのイメージも最近は大きく変わりつつあります。
言うまでもなく、彼が活躍した戦国時代は裏切りや謀反による下克上が当たり前の時代でした。
そんな時代の中で、実は臣下たちに裏切られ続けた武将の代表格が、意外なことに織田信長です。
岐阜駅前の織田信長像
まず、彼が最初に裏切られたは1552(天文21)年に家督を継いだ時のことです。織田家の筆頭家老である林秀貞は、信長は当主にふさわしくないと考えており、翌年に信長の弟の信勝を党首に据えようと挙兵しています。
この時、柴田勝家も信勝側に与していましたが、結果は信長が勝利。しかし、母親のとりなしによって、彼は挙兵した三者を許しました。柴田勝家が、その後も信長の優秀な家臣として仕え続けたのはご存じのとおりです。
■同盟相手や家臣にも裏切られる
その後、勢力を拡大してからも、信長は裏切りによってピンチに陥っています。まずは有名な浅井長政による背後からの急襲です。
この裏切りの理由は諸説あって判然としませんが、長政の同盟相手である朝倉家を、信長が攻めたことへの反発だったとされています。この時に信長が受けたダメージは大きく、難を逃れて京へ戻った時の残りの兵は僅か十人でした。
また、信長に謀反を起こした裏切り者の代表格の一人が松永久秀でしょう。

松永久秀(Wikipediaより)
彼は1572年(元亀3)年に足利義昭について信長に反旗を翻しましたが、その後、信長は久秀を許しています。
その後も、武田信玄による織田家との同盟破り、荒木村重による裏切り、そして本能寺の変と続いています。
当主に就任すれば身内から裏切られ、最後は明智光秀の裏切りによって命を落とし……。信長の人生は最初から最後まで裏切られる人生であり、もともと裏切られやすい武将だったと言えるでしょう。
■お人好しゆえに裏切られる
さて、ここまでの経緯は歴史好きの人ならよくご存じでしょうが、そもそも信長はなぜこれほどまでに周囲から裏切られ続けていたのでしょうか。
一般的なイメージは、彼がずば抜けて天才的な改革者で、家臣に厳しい性格だったので反感を抱かれがちだった……というものでしょう。
しかし、それほどの天才ならなぜ家臣の裏切りもうまく抑え込めなかったのか、という疑問も出てきます。
実際、先述の通り裏切り者に対する信長の処罰は軽いことが多いです。また松永久秀が自害する直前まで、信長は使者を使わせて謀反の理由を聞こうとしていました。いちいち対応が甘いのです。
ここで興味深い最近の説のひとつとして、信長はお人好しだった説があります。

若き日の織田信長像
もともと織田家は尾張の小大名に過ぎませんでした。
そのため、相手を信用することが信長の基本スタンスだったのではないかということです。実際、彼の抜擢人事は功を奏し、さまざまな場面で成果を上げています。
一方、信長には独善的かつ独断主義者的な面もありました。そのため、彼の中には「自分は家臣や同盟相手を信頼しているのだから、相手もそうに違いない」という根拠のない自信につながっていたのかも知れません。
参考資料:
日本史の謎検証委員会・編『図解 最新研究でここまでわかった日本史人物通説のウソ』彩図社・2022年
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