伊達政宗といえば「独眼竜」というキーワードでおなじみで、刀の鍔を使った眼帯姿で描かれることが多いです。
彼については、こんなエピソードがよく知られていますね。
天然痘にかかった幼少期の政宗は、失明して飛び出た片目を恥じて引きこもっていた。その様子をみかねた側近の片倉小十郎は、小刀で政宗の片目を切除し、鍔の眼帯を与えた。これによって政宗は活発さを取り戻し、奥州を席巻する名将に成長。大名から「独眼竜」といわれて畏怖された――。
隻眼のヒーロー・伊達政宗の像
しかし、この「眼帯をつけた独眼竜」というイメージは、完全に後世の創作によって広まったもので事実ではありません。しかもそれが広まった時期というのは大昔ではなく、かなり最近のことなのです。
まず、政宗が周辺大名から「独眼竜」と呼ばれた、という一般的なイメージについて検証しましょう。政宗にこの呼び名が使われるようになったのは江戸時代の後期からで、政宗が死んで200年近く経ってからのことでした。
独眼竜という名称は、もともとは中国の五代十国時代に活躍した武将である李克用の異名です。彼は片目の視力が悪かったとされています。
文化人・頼山陽が、漢詩の中で政宗を独眼竜・李克用になぞらえたことで、政宗=独眼竜のイメージが世間に広く知られるようになったというのが、現在最も有力な説です。

頼山陽(Wikipediaより)
ただ、それより前から政宗を独眼竜と結びつける考えがあったという説もあるので、ここは断定はできません。
では、伊達政宗のトレードマークである「刀を鍔を使った眼帯」のイメージは、いつ生まれたのでしょうか。
■ドラマのヒットでイメージが定着
彼のトレードマークでもある眼帯のイメージは、昭和の時代劇の影響で広まったものです。かなり最近なのです。
政宗が刀の鍔の眼帯をつけていたという情報は、戦国時代どころか、江戸時代の史料にも記されていません。明治時代以降、政宗を題材にした娯楽作品が数多く作られるようになりましたが、その流れで昭和になってから創作されたイメージに過ぎないのです。
まずその先駆となったのは、昭和17年(1942)に制作された時代劇映画『獨眼龍政宗』でした。ここで初めて眼帯姿の伊達政宗が登場したのです。
しかしこのときは眼帯のイメージは定着せず、80年代初期までは、政宗は片目の目蓋を閉じた姿で描かれることがほとんどでした。

伊達政宗の胸像
こうした状況が大きく変化したのが、昭和60年(1987)のNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』放映後です。当初は役者の目蓋を糊で閉じる予定だったのですが、身体的な負担が大きすぎるとして眼帯を採用することになったのです。
その後、ドラマが記録的にヒットしたことで「政宗=眼帯をつけた独眼竜」というイメージが定着していったと考えられています。
■発掘調査の結果は
最初に書いた、政宗が片目を摘出したというエピソードは、これによく似た話が仙台藩の史料にも載っています。
しかし、その真偽の決定打となったのは昭和4年(1974)の発掘調査でした。調査の結果、政宗の頭蓋骨から手術の痕は発見されなかったのです。政宗が病で片目を失明したのは事実であるものの、眼球を失ったわけではないことが今でははっきりしています。

伊達政宗の肖像画。本人の遺言で両目を開けた状態の肖像画が多い中、これは片目が綴じた状態で描かれている(Wikipediaより)
では、本物の政宗はどんな容貌だったのでしょうか。その手がかりは、宮城県の瑞巌寺に保管されている政宗の木像にあります。
政宗の多くの肖像画では、遺言に従って目が黒く描かれているのですが、この瑞巌寺の木像は右目が白く濁っており、生前の姿を最も忠実に再現しているといわれているのです。おそらく、これが政宗本来の容貌なのでしょう。
また、佐竹家などの記録には「(政宗は)白い布で目を覆っていた」とも記されています。来客の前では右目を隠すこともあったのかも知れませんね。
このように見ていくと、「眼帯姿の独眼竜」のイメージは完全に後世の創作であることが分かるでしょう。
娯楽作品では、隻眼や盲目のキャラクターというのはどことなく特別で強そうなイメージがあるものです。
参考資料:日本史の謎検証委員会・編『図解 最新研究でここまでわかった日本史人物通説のウソ』彩図社・2022年
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