源倫子の父であり、藤原道長の舅であった源雅信(みなもとの まさのぶ/まさざね)。劇中では既に亡くなりましたが、その血脈は後世へと受け継がれていきます。
益岡徹 演じる源雅信(「光る君へ」公式サイトより)
源雅信の子孫には近江源氏(宇多源氏)として有名な佐々木兄弟もいました。
佐々木兄弟と言えば源頼朝の挙兵を助け、鎌倉幕府の礎となった忠勇の御家人たちです。
今回は系図集『尊卑分脈』より、源雅信から佐々木兄弟までの系図をたどってみましょう。
■源雅信

源雅信。菊池容斎『前賢故実』より
延喜20年(920年)生~正暦4年(993年)7月29日没
郢曲笙笛和琴鞠歌新古今一新勅撰一作者【意訳】郢曲(えいきょく。俗謡)・笙・笛・和琴・蹴鞠に優れた。
號一條左大臣 又號鷹司
正二 贈正一位
母時平公女
※『尊卑分脈』より
和歌にもひいで、『新古今和歌集』と『新勅撰和歌集』に一首ずつ採録されている。
人々から「一条左大臣」あるいは「鷹司殿」と呼ばれた。
正二位まで昇り、死後に正一位を贈られる。
母親は藤原時平(ときひら)の娘。
以下は直系のみをたどっていきましょう。
■源扶義(すけのり)
天暦5年(951年)生~長徳4年(998年)7月25日没
弁 五蔵 頭【意訳】弁官・五位蔵人・蔵人頭を歴任した。
佐々木祖 中宮権大夫 右中弁大蔵卿
参木 左大弁 正四下
※『尊卑分脈』より
佐々木氏の祖先であり、中宮権大夫・右中弁・大蔵卿・参議・左大弁など要職を務める。
正四位下まで昇った。
■源成頼(なりより/しげより)
貞元元年(976年)生~長保5年(1003年)8月7日没
兵庫 従五下【意訳】兵庫寮に勤め、従五位下に昇る。
※『尊卑分脈』より
■源章経(あきつね)
長保2年(1000年)生~天喜6年(1058年)没
名前のみで記述なし。他文献によると別名は源義経(よしつね)、兵部丞を勤め従五位下まで昇ったという。
■源経方(つねかた・佐々木経方)
生没年不詳
住近江国佐々木【意訳】近江国佐々木に移住し、佐々木の苗字を名乗った。
従五下 號源大夫
※『尊卑分脈』より
従五位下に叙せられ、源大夫(げんのたいふ)と称する。
大夫とは四等官のカミ(長官)に相当するが、官職は不明。
■佐々木季定(すえさだ)
生没年不詳
『尊卑分脈』では名前のみで詳細不明。
別名は佐々木為俊(ためとし)、従五位下に叙せられ、式部丞に任じられた。
人々からは源次大夫(げんじのたいふ)と呼ばれる。父親から受け継いだか。
■佐々木秀義(ひでよし)
天永3年(1112年)生~元暦元年(1184年)7月19日没
六条判官為義猶子【意訳】通称は源三(げんぞう/げんざ)。六条判官こと源為義(ためよし。頼朝公祖父)の猶子(相続権のない養子)となる。
佐々木源三
※『尊卑分脈』より
佐々木兄弟の父。
■そして佐々木兄弟

宇治川の先陣争いを制する佐々木高綱。大塚春嶺筆
佐々木定綱康治元年(1142年)生~元久2年(1205年)4月9日没
佐々木兄弟の長男。鎌倉殿三代(頼朝・頼家・実朝)に仕える。のち検非違使を務めるなど幕府の重鎮として活躍。
佐々木経高生年不詳~承久3年(1221年)6月16日没
『尊卑分脈』では割愛。側室の子だから。頼朝公挙兵の第一矢を放ち、数々の武勲を立てるも源頼家に冷遇され、承久の乱では官軍に属して討死。
佐々木盛綱仁平元年(1151年)生~没年不詳
頼朝公挙兵以来、数々の武勲を立てる。
佐々木高綱永暦元年(1160年)生~建保2年(1214年)11月6日没
宇治川の合戦で梶原景季と先陣を争ったエピソードで有名。兄たちと共に数々の武功を上げる。
■終わりに

宇多天皇(法皇)御影。(画像:Wikipedia)
【宇多源氏・略系図】今回は源雅信から近江源氏の佐々木兄弟までの系譜をたどってきました。
……宇多天皇-敦実親王-源雅信-源扶義-源成頼-源章経-佐々木経方-佐々木季定-佐々木秀義-佐々木定綱ら……
※『尊卑分脈』宇多源氏
やんごとなき貴族と鎌倉武士にはギャップがありますが、これも世の移ろいというものでしょう。
平安の世が次第に武士たちの世へと移り変わる様子は、王朝文化の端々に現れていきます。
まさに紫式部や藤原道長の生きた10世紀末から11世紀初頭がその過渡期となりました。
果たして大河ドラマ「光る君へ」でも、その気配が描かれるのか、今から楽しみにしています。
※参考文献:
- 藤原公定 撰『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集 第19-20巻』国立国会図書館デジタルコレクション
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