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明治新政府の重鎮となった後も質素な暮らしを続けており、親分肌で清廉な人物像で知られています。
上野公園にある、愛犬を連れた着流し姿の銅像からも親しみやすさが感じられますね。

上野公園の西郷隆盛像
■「激情家」の一面も
しかし、そうしたイメージには西郷の一面しか反映されていません。彼は人づきあいがうまかった半面、偏狭な性格で、人の好き嫌いが激しい人物でした。
また、配下を平気で切り捨てたり、陰謀を巡らせ破壊活動を主導したりするなど、冷酷な謀略家としての顔も持ち合わせていました。
例えば、西郷と同郷で、後に大阪商工会議所の初代会頭となる五代友厚という人物がいます。彼は大阪商業界発展のために、私財を投入して新事業に次々と挑戦しましたが、西郷は彼を「利で動く人間」と非難しています。
また、自分を取り立ててくれた藩主・島津斉彬のことは「お天道様のような人」と敬っていましたが、次代藩主の忠義の父であり、藩政をとりしきった島津久光に対しては、斉彬より器量が劣ると見て蔑視していました。
久光は後年、西郷から「地ゴロ(田舎者)」と罵られたと側近に対して述懐しています。この発言は他の史料では確認できないものの、久光が西郷と折り合いが悪かったのは事実です。

島津久光像
このように主君に対しても悪感情を隠さない西郷を、大久保利通は「激情家」と評しています。
■「謀略家」西郷隆盛
西郷は、倒幕のためなら手段を選ばない謀略家でもありました。
慶応3年(1867)10月、彼は幕府を挑発するために、配下の浪士に江戸市中で辻斬り・強盗・放火などを行うよう攪乱工作を命じています。
狙いは、佐幕派を挑発して戦端を開かせることにありました。浪士たちが行った蛮行は、無関係な江戸の庶民を恐怖に陥れることになります。
さらに浪士たちは庄内藩お抱えの新徴組(しんちょうぐみ)屯所を襲撃。これに対し、幕府は庄内藩に命じて薩摩藩邸の攻撃を命令したりしています。
やがて西郷の思惑通り佐幕派は報復措置として薩摩藩邸を砲撃。これが戊辰戦争の遠因となりました。
また西郷は、目的を達成するために天皇を政治的に利用したこともあります。
大政奉還が行われる前、彼は大久保や岩倉具視らとともに朝廷に接触し、「徳川慶喜を誅殺せよ」という討幕令、いわゆる討幕の密勅を出させています。

討幕の密勅(Wikipediaより)
この密勅は天皇自身の署名がないことなどから、偽物の勅書と見られています。西郷らは新政権でトップに据えるはずの天皇の意図とは無関係に、その権威を利用していたのです。
■「冷血漢」だった西郷
西郷は敵のみならず、配下に対しても冷酷でした。
しかし、年貢半減が財政的に困難だとわかると、西郷は公約を撤回。そればかりか、年貢半減は赤報隊が勝手に触れ回ったものとして彼らを追討し処刑したのです。
赤報隊には軍令違反の疑いもあったため、彼らにも非はありましたが、どさくさに紛れて年貢半減の責任を押し付けるなど、西郷のやり口は抜け目ないものでした。

薩摩川内市湯田町の西郷隆盛銅像
西郷隆盛は、親しまれる「西郷どん」の顔を持つ一方で、その強引な手腕からは策謀に長けた冷血漢でもあったのです。
参考資料:日本史の謎検証委員会・編『図解最新研究でここまでわかった日本史人物通説のウソ』彩図社・2022年
画像:photoAC, Wikipedia
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