徳川家康/Wikipediaより
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裏切りの果てに…「関ヶ原の戦い」で寝返った武将たちのその後を一挙まとめ!【西軍編】

義父を裏切ってまで西軍についた遠藤胤直
まず1人目は遠藤胤直(えんどう-たねなお)です。
胤直は義父の遠藤慶隆と岐阜城主で西軍の織田秀信(織田信長の孫)から会津から西進する徳川家康の妨害を頼まれます。しかし、2人は秀信の要請に応えることなく、東軍に味方しました。
しかし、胤直だけ何の前触れなく西軍に加担。胤直は、かつて慶隆が居城としていた八幡城を慶隆が奪還する際、対峙しました。八幡城の戦いと呼ばれるこの戦いで、胤直は慶隆と慶隆の娘婿にあたる金森可重(かなもり-よししげ)の前に敗北。降伏を余儀なくされました。

戦後、可重が助命嘆願しますが、義父である慶隆を裏切った罪は重く、改易となります。その後は妻と離縁し、浪人となり慶長9年(1604)に亡くなりました。
長年の恨みから東軍を裏切った小野寺義道
2人目は小野寺義道です。
義道は出羽国(秋田県と山形県)出身の武将で、天正11年(1583)に家督を継ぎます。その後は、同じ出羽国の最上義光(もがみ-よしあき)と対峙。

武勇に優れつつも、知略に乏しかった義道は義光の策略の餌食に。慶長2年(1597)には小野寺領のほとんどを失いました。しかし、義光の元にいた義道の家臣によって領地奪還を果たしました。
慶長5年(1600)、義道は関ヶ原の戦い時には義光と東軍として、西軍の上杉景勝と慶長出羽合戦にて戦います。戦いの最中、義道は最上軍の苦戦と同じ東軍の伊達政宗が静観していたこと、義光への恨みがあったことから西軍へ寝返りました。

しかし、西軍が敗北したことで形勢逆転。義道は多大な犠牲を出しながら、撤退します。戦後には改易処分を受け、石見国(現在の島根県西部)へ流罪となりました。その地で坂崎氏、亀井氏に仕え、義道は正保2年(1645)に80歳で亡くなりました。
人質により西軍に味方した前田利政
3人目は前田利政です。

前田利家の次男だった利政は、関ヶ原の戦いに赴く前に兄の前田利長と北陸の大聖寺城を攻略。しかし、一度金沢城へ退きます。
利政が西軍になった理由は、石田三成に家族を人質に取られていたことと徳川家康に反発心があったことがあげられています。

関ヶ原の戦い後は所有していた能登国(石川県北部)を改易され、京都で過ごしました。慶長19年(1614)から起きた大坂の陣では、豊臣、徳川から誘いを受けるも拒否。中立を貫きました。
豊臣陣営に与しなかったことを家康は褒め、大名にすることを持ちかけられます。しかし、「大野治長の元で戦いたくなかっただけで、徳川の顔を立てたのでない」と伝え、これも拒否。その後、寛永10年(1633)に55歳で亡くなりました。
家臣を見捨てて寝返ろうとした宮部長房
4人目は宮部長房(みやべ-ながふさ)です。
宮部継潤の嫡男として生まれた長房は、父ともに豊臣家に仕えていました。慶長5年(1600)の会津征伐では、東軍として従軍。

そこで長房は、夜に陣を抜け出し熱田に向かいます。少数で船を待ちましたが、待てど暮らせど船は来ませんでした。長房不在を知った宮部家の家臣たちは、継潤の家臣だった田中吉政と合流しました。

船を発見できなかった長房は陣に帰るも、騒ぎを聞いた徳川家の者によって岡崎城で幽閉。戦後、長房は死罪を言い渡されます。
しかし、吉政の助命嘆願により、領地没収後に吉政預かりとなりました。その後、南部利直に預けられ、寛永11年(1634)に亡くなりました。
西軍と内通により処分を受けた山川朝信
最後に紹介する人物は山川朝信です。
山川家は代々結城家に仕える重臣で、朝信は結城晴朝に仕えていました。関ヶ原の戦いでは、結城秀康に仕え東軍として戦いました。しかし、関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601)に西軍の上杉家に内通していたことが発覚。

朝信はこの一件で改易処分を受けます。その後は、嫡男の山川朝貞が秀康のいる越前国に入国したことを機に、再び秀康に仕えました。
まとめ
西軍から東軍に寝返った武将たちと違って、東軍から西軍に寝返った武将たちは全員が改易処分を受けていたことがわかります。勝利した側から敗北した側に願ったこともあって、処分が重くなるのは戦国の習いかなと思います。
今後、再起する機会を失わせる家康の用意周到さがうかがえますね。
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