天智天皇の弟と子が争った古代最大の内乱といえば、壬申の乱(じんしんのらん)です。
なぜこの争いは起きたのでしょうか?かつては、天智が子の大友皇子を即位させようと謀略を図ったからだとされてきました。
天智天皇(Wikipediaより)
『日本書紀』の壬申紀(天武天皇の事績を記した箇所)には、次のように書かれています。少し長いですが簡単にまとめましょう。
病床についていた天智は、蘇我安麻呂を遣わして弟の大海人皇子を招き、彼に後事を託しました。
しかし、大海人は要請を固辞します。
大殿に入る前に、安麻呂から「お言葉にお気を付けください」と忠告されたことで、天智の陰謀を疑っていたからです。
代わりに天智の皇后である倭姫王の即位と大友による執政を要請し、出家して吉野に入りました。
この後に天智が亡くなると、大友が挙兵の準備を始めたため、大海人は吉野を脱出してやむなく行軍。大海人のもとには郡司や国司が集まり、朝廷を二分する争いが勃発しました。
結果、争いは大海人の勝利に終わり、新たに天武天皇が誕生した——。

天武天皇(Wikipediaより)
通説はこうした記述に基づいていましたが、近年は評価が変わりつつあります。
天智は最初から大海人に譲位するつもりだったのであり、大友皇子が即位できるとは考えていなかった、という、歴史学者・倉本一宏の説があるのです。
こうした説が出てくるようになったのは、根拠とされてきた『日本書紀』の成立事情や解釈をめぐり、さまざまな疑義が出たからです。
■天智の皇位継承プラン
倉本一宏氏の説によると、天智は大海人に譲位した後の皇位継承者も想定していたはずだとのことです。
血筋を考慮すると、候補者は四人です。一人目は、大友と十市皇女(大海人の娘)の子で天智の孫の葛野王。
二人目は、大海人と大田皇女の子である大津皇子。三人目は大海人と鶴野皇女の子である草壁皇子。
そして四人目は、大海人の妃である鸕野です(実際に即位したのは鸕野=持統天皇)。

江戸時代に描かれた持統天皇(Wikipediaより)
大田と鸕野は天智の娘であるため、いずれの候補者が即位しても天智系の血統が皇位につくことになります。よって大海人にとっても、このプランは悪くありません。
『日本書紀』の記述からは、大海人が即位するつもりはなかったように読み取れますが、おそらくそんなことはなく、即位を固辞するのは古代の慣例でした。
大海人からすれば、天智からもう一度要請を受けるか、天智死後に群臣から推薦されるのを待っていたのでしょう。
■挙兵を企てたのは持統天皇?
では、大友が挙兵の準備をしたのは大海人の即位を邪魔するためだっでしょうか。倉本氏は大友ではなく、大海人の妃である鸕野が挙兵を主導したと主張します。

乱時に大海人皇子が兜をかけたとされる兜掛石(岐阜県)
鷓野からすれば、大友の子である葛野王が即位すれば、自身の皇子が即位する可能性がなくなります。そこで大友を排して葛野王即位の可能性を取り除こうとしたのではないか、ということです。
大海人にとっても、葛野王以外の皇子が即位すれば自身の血統を維持することができて都合はいいでしょう。そこで大海人は鶴野に協力して、挙兵の準備をしたのではないか——。
この説は新しい通説として定着はしていないものの、壬申の乱を新しい視点で眺めた説として注目されています。
参考資料:日本史の謎検証委員会・編『図解最新研究でここまでわかった日本史人物通説のウソ』彩図社・2022年
画像:Wikipedia
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan