勝海舟(かつかいしゅう)は、幕末に最も活躍した「伝説の幕臣」の一人です。
黒船が来航すると、彼は海岸の防備強化を説く意見書をいち早く提出。
また討幕派が勢いづき、新政府軍によって江戸が攻撃されようとしたときも、勝は得意の交渉術で新政府側と互角にわたり合っています。
その結果、西郷隆盛との直接会談を実現し、江戸城の無血開城に成功。江戸が火の海となることを回避した――。こうした功績から、勝は高く評価されてきました。
勝海舟(Wikipediaより)
こうした政治的な実績はよく知らなくても、「坂本龍馬の師匠」や「チャキチャキの江戸っ子」などのイメージで、彼のことを捉えている人は多いでしょう。
しかし現在、勝の評価は大きく見直されています。
上述の通説は勝の証言をまとめた『氷川清話』に多くを依拠していますが、他の史料や証言と照らし合わせると、この証言録には矛盾が多いことがわかってきたのです。
例えば、咸臨丸を指揮して太平洋を横断したというエピソードは有名ですが、実際には出港直後に船酔いで寝込み、同乗したアメリカ水兵たちが指揮をとっていました。
対馬を不法占拠したロシア軍を英国の協力で退散させたという「対馬事件」も、実際に動いたのは箱館奉行衆です。
『氷川清話』では自分の功績のように記していますが、事件が起きた時、勝は江戸にいました。
■「無血開城」の真の功労者は
そして慶応4年(1868)3月14日に決定した江戸無血開城も、勝だけの手柄ではありませんでした。
江戸に迫った新政府軍に対して、勝は周到な準備をしたとされています。
彼はイギリス公使を介して新政府軍へ圧力をかけ、侠客に江戸市中での焦土作戦を命令して新政府軍をけん制。この状況を利用した交渉術によって、西郷隆盛に江戸攻撃を中止させた——というのが通説です。

結城素明画『江戸開城談判』(聖徳記念絵画館所蔵・Wikpediaより)
しかし実際には、勝がイギリスの外交官と対面したのは江戸無血開城後の24日のことでした。また、焦土作戦のことを西郷は知りませんでした。
つまりイギリスの圧力も焦土作戦も、江戸無血開城とは無関係だったのです。
そもそも、西郷から攻撃中止の判断を引き出したことは、勝だけの功績ではありません。慶喜に仕えた山岡鉄舟の活躍があったからこそ、江戸は火の海となることを避けられたのです。
鳥羽伏見の戦いでの敗北後、将軍の慶喜は上野寛永寺へ謹慎し、新政府軍へ恭順の意を示していました。
しかし、新政府は慶喜の真意を測りかね、江戸への進軍をやめませんでした。
そこで慶喜は、降伏交渉の使者を西郷のいる駿府に派遣することを決めます。このとき選ばれたのが、山岡鉄舟でした。
その結果、鉄舟は交渉を成功させ、西郷は江戸城引き渡しと引き換えに、慶喜の助命を認めたのです。
二人の会談は何度か行われましたが、最後の会談は3月9日のことです。勝と会談した4日ほど前には、すでに無血開城の大筋は決まっていたことになります。
なお、鉄舟は勝の命令で派遣されたという説もありますが、これは勝本人が『氷川清話』の中で「初対面だった」と否定しています。
■山岡の手柄を横取り
では、既に無血開城は決定していたにも関わらず、江戸城で勝と西郷が会ったのはなぜでしょうか?
それは、最後の確認作業をするためでした。駿府で合意したとはいえ、正式な決定がない以上、立場のある幕臣と調整を進めなければなりません。そこで勝が調整役になったというわけです。
これが勝ひとりの手柄として広まったのは、勝本人が自分の功績として喧伝したからです。
西南戦争で西郷が死ぬと、勝は明治14年(1881)に「江戸の総攻撃中止は自分が主導した」との報告書を、勲章・褒賞などを所管する賞勲局に提出しました。
これにより、江戸無血開城は勝の功績として語られることになったのです。

明治期の勝海舟(Wikipediaより)
なお、実際に西郷と交渉した鉄舟は、勝と競合するのを嫌ってか、賞勲局に報告書を提出していません。
つまり「江戸城無血開城」の伝説については、勝が山岡の手柄を横取りした部分もあったということです。
参考資料:日本史の謎検証委員会・編『図解最新研究でここまでわかった日本史人物通説のウソ』彩図社・2022年
画像:Wikipedia
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan