武田信玄の信濃侵攻で始まった、武田家と上杉家の決戦が川中島の戦いです。複数回行われたうち、第四次川中島の戦いは特に有名ですね。
この戦いの知名度が高いのは、激戦となり信玄と謙信の一騎打ちが起きたといわれてきたからです。
妻女山に布陣する謙信に、別働隊を送り啄木鳥戦法と呼ばれる奇襲作戦を決行する信玄。しかし、謙信は作戦を見破って逆に信玄を奇襲。大将同士の一騎打ちが起きる大乱戦になった――。
川中島の戦いの「一騎打ち」を再現した銅像(Wikipediaより)
このようなドラマティックな展開で知られる第四次川中島の戦いですが、実は実態はほとんどわかっていません。信頼性の高い史料がなく、有名なエピソードは史実とはいえないものばかりなのです。
合戦の様子を伝える史料は、『甲陽軍鑑』という江戸時代の兵学書だけ。これを編纂したのは武田家家臣の末裔・小幡景憲です。
江戸時代には武田家の戦歴や戦法を記録した軍学書として読み継がれてきましたが、しかしこの書物、明治時代になると評価は一変しました。東京帝国大学の田中義成教授が年代や出来事の誤りを指摘したのです。

田中義成(Wikipediaより)
信玄と謙信の一騎打ちについては、当時の軍事常識にそぐわないことが指摘されています。そもそも謙信は上杉家当主にして軍の総大将であり、最も安全な最後尾で指揮を執るのが当時の常識です。
仮に乱戦になったとしても陣頭指揮をしていたとは考えがたく、ましてや単騎で敵陣まで駆ける可能性は限りなく低いのです。
■戦術も創作だらけ
創作が指摘されているエピソードは、他にもあります。
上杉謙信が使ったとされる車懸りの陣もその一つで、これは部隊が円を描くように波状攻撃をする戦術ですが、近代的な軍隊ならともかく農民主体の当時の軍では実現不可能な戦術だと言えるでしょう。
同じく、武田の別動隊が上杉本陣を奇襲した際に用いたという啄木鳥戦法も、1万2000人を奇襲に使うというずさんな内容から後世の創作だとされています。

JR塩山駅北口の武田信玄像
では、信頼性のある史料に基づきながら『甲陽軍鑑』の内容も精査すると、第四次川中島の戦いはどういった経緯で進んだといえるのでしょうか。
合戦時、川中島には濃霧が発生していたと、複数の史料に記録されています。もしかするとそんななか、双方の軍が進軍先を見誤って偶然に接近したのかも知れません。こうした不測の事態により大乱戦になったと考えることができます。
ちなみにこの戦いでの両軍の死傷者は、あわせて2万5000人以上と言われています。数字を鵜呑みにはできないものの、激戦の末に多くの死傷者が出たことも間違いないのでしょう。
■川中島以外も戦場だった
戦場についても、厳密には「川中島の戦い」とは呼べないところがあります。
現在では、川中島周辺の戦いも含めた5回にわたる合戦を川中島の戦いと呼ぶことが多いです。

上越妙高駅の上杉謙信騎馬像
しかし、厳密にいえば実際に川中島の地で戦いがあったのは、2回目と4回目のみ。しかも、大規模な戦闘があったのは4回目だけなのです。
その他の戦いでは武田と上杉が積極的に戦うことはなく、戦闘があっても短期間の小競り合いに終わりました。
こうした事情を考慮して、明治時代から戦後までは「二戦説」が通説になっていました。
もっとも現在は、武田と上杉が対立していた点に重点を置く考えから、川中島周辺で起きた5回の争いを一括して川中島の戦いと呼ぶことが多くなっています。
参考資料:日本史の謎検証委員会・編『図解最新研究でここまでわかった日本史人物通説のウソ』彩図社・2022年
画像:photoAC,Wikipedia
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