紫式部は夫である藤原宣孝と死別した後、藤原彰子(一条天皇中宮。藤原道長長女)の女房として出仕するようになります。


そこでは色んなことがあり、色んな同僚たちと出会いますが、コミュ障な紫式部にも親友ができました。

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今回は紫式部の親友・小少将の君(こしょうしょうのきみ)を紹介。果たしてどんな女性だったのでしょうか?

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■あまりの仲良しぶりに道長も苦笑い?

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二人の間に、間仕切りなんて必要なし(イメージ)

小少将の君は生年不詳、概ね天元5年(982年)ごろに誕生したものと考えられます。

父親は源時通(ときみち)、姉に大納言の君と呼ばれた源簾子(れんし/やすこ)がいました。源時通は源倫子(藤原道長正室)の弟であるため、姪に当たります。

幼いころに父・時通が亡くなってしまったため、伯父である源扶義(すけのり)の養女となりました。

成長すると藤原彰子の女房として出仕。女房名の小少将とは、兄(同腹?異腹?)の源雅通(まさみち)が長保3年(1001年)に右近衛少将(うこのゑのしょうしょう)となっているため、これに由来すると考えられます。

紫式部とはおよそ一回り年少でしたが、利発で奥ゆかしい女性だったのでしょう。

元々道長は彰子の周りをそのような女房で固めたがり、また愚鈍で品がない女性であれば紫式部のお眼鏡には適わなかったはずです。

二人は次第に仲良くなって、居住空間に設けられていた間仕切りを取り払って共同生活を送っていました。

※当時の女房たちは、広い空間に間仕切りを設けた各スペース(局)で生活しています。


隣同士に住むだけでは満足出来ず、ルームシェアするほど仲良しでした。

あまりの仲良しぶりに、道長が「仕切りもなくては、男が来た時に困らないか?」とからかったそうです。

もしかしたら男とは道長自身のことで、二人もそれを察しており、道長に手を出されないよう牽制していたのかも知れませんね。

■恋人のいない二人

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これ見よがしに隙だらけだと、かえって警戒されるかも(イメージ)

その甲斐あって?か、小少将の君と紫式部には恋人が出来ませんでした。良かったのかどうだか……。

「私たち、彼氏なんていなくても平気だもんねー」

「ねー」

なんて言ったかは分かりませんが、お互いに恋人がいないことについて、詠み交わしたエピソードが『紫式部集』に伝わっています。

ある年の6月7、8日ごろ。小少将の君がこんな和歌を詠みました。

(六七)
うちに、くひなのなくを、七八日の夕づくよに、小少将の君
新勅

あまのとの 月のかよひぢ ささねども
いかなるかたに たゝくくひなぞ

※『紫式部集』より

【意訳】誰か来ないかと期待して戸締りせずに寝ているけれど、ウチには誰も来てくれない。どこかで戸を叩く音がするばかりで、ウチにも来てくれればいいのに……。

これに対して、紫式部が返歌を詠みます。

(六八)


まきのとも ささてやすらふ 月かげに
なにをあかずと たゝくくひなぞ

※『紫式部集』より

【意訳】音がするだけまだマシでしょ?ウチなんか音すら聞こえやしない。
その水鶏(くいな。男を指す)は、何が悲しくて閉ざされている戸を叩くんでしょうね……。

せっかくオープンにしている戸があるのだから、こっちに来ればいいのに……そんな二人は嘆きを共有しながら、友情を深め合ったようです。

■『源氏物語』女三宮のモデルになった?

かくまで仲良しな小少将の君について、紫式部はどう思っていたのか、『紫式部日記』にはこんな記述があります。

……もてなし心にくく、心ばへなども、わが心とは思ひとるかたもなきやうに物づつみをし、いと世をはぢらひ、あまり見ぐるしきまでこめい給へり……

※『紫式部日記』より

【意訳】彼女の振舞いは奥ゆかしく、何かにつけて遠慮がちです。恥じらいの心を忘れないのは素晴らしいけれど、それが時に何も分からない子供のように見えてしまうことがあります。

また上品かつ優美、その姿はさながら二月ごろのしだり柳と言ったところ……とも評しました。

この表現は彼女の作品『源氏物語』に登場する女三宮(おんなさんのみや。朱雀帝の第三皇女)にも用いられており、もしかしたら小少将の君がモデルの一人だったのかも知れませんね。

■小少将の君を偲ぶ

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悲しみにくれる紫式部。菊池容斎『前賢故実』より

そんな小少将の君ですが、寛仁元年(1017)7月10日に兄の源雅通が亡くなると、程なくして世を去ってしまったと考えられています。

ある日、紫式部が身の回りを整理していると、小少将の君が送ってくれた文を見つけました。


往時の懐かしさを噛みしめながら、仲のよい加賀少納言(かがのしょうなごん)に和歌を詠みます。

(六四)
新少将(小少将)のかきたまへりしうちとけ文の、物のなかなるを見つけて、かがの少納言のもとに
新古

くれぬまて(の) 身をばおもはで 人の世の
哀(あはれ)をしるぞ かつはかなしき

※『紫式部集』より

【意訳】自分の生命もいつまで続くか分からない中で、大切な彼女の死に直面することで世の儚さを痛感させられます。

また続けて詠みました。

(六五)


たれか世に なからへてみむ かきとめし
跡はきへせぬ かたみなれとも

※『紫式部集』より

【意訳】彼女がくれた文はこうして私の手元に残っているけれど、私も死んでしまった後は誰が読み継いでくれるのでしょうか……。

何だか紫式部も後を追ってしまいそうな感じです。

■「クヨクヨすんな!」加賀少納言の返歌

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「しっかりなさい!そんなことじゃ、彼女が成仏できないでしょ!」紫式部を叱咤激励する加賀少納言(イメージ)

世の儚さに沈む紫式部へ、加賀少納言が返歌をくれました。

(六六)
かへし


なき人を しのぶることも いつまでぞ
けふの哀は あすの我みを

※『紫式部集』より

【意訳】亡くなった彼女を、いつまで偲んでいるのでしょうか。明日は我が身かも知れないのに……。

どうやら彼女は「いつまでもクヨクヨしてんじゃないよ!私たちだっていつまで生きられるか分からないんだから、今日を楽しんで生きなくちゃ!」と言いたいようです。

紫式部が感傷的な和歌を贈るくらいだから仲はよいのでしょうが、性格は対照的だったのかも知れません。

内向的で陰キャ気質な紫式部に、おっとり内気な小少将の君、そして竹を割ったような加賀少納言。3人はそんな感じでバランスがとれていたのでしょうか。


でもきっと、加賀少納言も小少将の君を喪ったことに少なからず傷ついていたのだと思います。

■終わりに

今回は紫式部の親友・小少将の君について紹介してきました。紫式部と性格が合いそうでしたが、加賀少納言もいいキャラしてそうな感じですね。

果たしてNHK大河ドラマ「光る君へ」には小少将の君、そして加賀少納言は登場するのでしょうか。もし登場するなら誰がキャスティングされるかも注目しましょう!

※参考文献:

  • 南波浩 校註『紫式部集 付 大弐三位集・藤原惟規集』岩波文庫、2024年2月
  • 萩谷朴『紫式部日記全注釈 上巻』角川書店、1971年11月
  • 福家俊幸『紫式部 女房たちの宮廷生活』平凡社新書、2023年11月

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