夫・藤原宣孝の死後、藤原彰子に女房として出仕した紫式部。そこには様々な女房たちが活躍しており、いい人もやな人もいました。
今回は紫式部と親しくしていた藤原豊子(ほうし/とよこ)を紹介。果たして彼女はどんな女性だったのでしょうか。
※あわせて読みたい!:
【光る君へ】紫式部と仲良しすぎて道長も手が出せず!? 親友・小少将の君とはどんな女性だった?
■後朱雀天皇の筆頭乳母を務める
豊子が乳母を務めた第69代・後朱雀天皇(画像:Wikipedia)
藤原豊子は生没年不詳、藤原道綱(道長異母兄)の娘として誕生しました。
母親は不明、『権記』によると実名不詳の姉妹が一人いることが分かります。
成長すると大江清通(おおえの きよみち)と結婚。大江定経(さだつね)を産みました。
※他の子供たちは母親不明。
やがて藤原彰子の女房となり、様々な女房名で呼ばれます。
さらに敦良親王(あつなが。のち後朱雀天皇)が生まれた際には筆頭乳母を務めました。
寛仁3年(1018年)8月28日に敦良親王が元服した際、正四位に叙されています。
のち従三位に昇った豊子ですが、驕り高ぶるようなこともなく、女房たちから慕われました。
豊子を慕う女房の一人が紫式部であり、二人は親しく交流したと言います。
そんな二人の関係を示すエピソードが『紫式部日記』にあるので紹介しましょう。
■
あまり女性の顔をまじまじと見るものではない(イメージ)
常識人(というか御局様気質)?の紫式部にしては、かなり大胆なことをしでかしています。
しかし思わずそうしたくなってしまう可愛さと、それを許してしまう豊子の優しさがなせる業だったのでしょう。
「もうっ、謝るまで許さないんだからっ!」
仕事は出来るけど親しみやすく、同僚や部下たちから慕われる。そんな人望厚い愛されキャラだったのかも知れませんね。
■亡き夫を偲ぶ
豊子と交流があった赤染衛門の夫・大江匡衡。菊池容斎『前賢故実』より
そんな豊子は和歌にも巧みで、『後拾遺和歌集』に1首が入選しています。
【真意】夫を喪い出家したものの、恋しさを袂(たもと)に抱えながら独り寝ています。
※解釈は諸説あり。
濃地を恋路にかけ、菖蒲の根に寝をかけて独り寝の寂しさを詠んだのでした。
注釈にあるとおり、豊子は赤染衛門(あかぞめゑもん)と大江匡衡(おおえの まさひら)夫婦と交流していたことが分かります。
二人は有名なおしどり夫婦でしたから、独り身の寂しさが身にしみたのかも知れませんね。
■終わりに
紫式部。土佐光起筆
今回は紫式部の親友・藤原豊子についてそのエピソードを紹介してきました。
果たして豊子はNHK大河ドラマ「光る君へ」に登場するのか、誰がキャスティングされるのか、今から楽しみですね!
※参考文献:
今回は紫式部と親しくしていた藤原豊子(ほうし/とよこ)を紹介。果たして彼女はどんな女性だったのでしょうか。
※あわせて読みたい!:
【光る君へ】紫式部と仲良しすぎて道長も手が出せず!? 親友・小少将の君とはどんな女性だった?
■後朱雀天皇の筆頭乳母を務める

豊子が乳母を務めた第69代・後朱雀天皇(画像:Wikipedia)
藤原豊子は生没年不詳、藤原道綱(道長異母兄)の娘として誕生しました。
母親は不明、『権記』によると実名不詳の姉妹が一人いることが分かります。
成長すると大江清通(おおえの きよみち)と結婚。大江定経(さだつね)を産みました。
※他の子供たちは母親不明。
やがて藤原彰子の女房となり、様々な女房名で呼ばれます。
- 宰相の君:宰相は参議の唐名で父・道綱の官職に由来。
- 宰相中将:道綱が右近衛中将も兼任したことに由来。
- 弁の宰相:身近に弁官を務めた人物が見当たらないため、彰子から与えられたか?
- 讃岐宰相:夫の清通が讃岐守を務めたことに由来。
- 美作三位:子の定経が務めた美作守と、自身の位階(従三位)に由来。
※女房名の由来は諸説あります。
さらに敦良親王(あつなが。のち後朱雀天皇)が生まれた際には筆頭乳母を務めました。
寛仁3年(1018年)8月28日に敦良親王が元服した際、正四位に叙されています。
のち従三位に昇った豊子ですが、驕り高ぶるようなこともなく、女房たちから慕われました。
豊子を慕う女房の一人が紫式部であり、二人は親しく交流したと言います。
そんな二人の関係を示すエピソードが『紫式部日記』にあるので紹介しましょう。
■

あまり女性の顔をまじまじと見るものではない(イメージ)
二十六日、御薫物(おたきもの)あはせはてて、人々にもくばらせたまふ。まろがしゐたる人々、あまたつどひゐたり。……長いのでかいつまんで話すと、要するに昼寝していた豊子(弁の宰相の君)の寝顔を除き込んだ紫式部が「まぁ可愛い。おとぎ話のお姫様みたい(物語の女の心地もしたまへるかな)♡」と呟いたところ、豊子は慌てて「貴女、頭おかしいんじゃないの(もの狂ほしの御さまや……)!?」と怒ったけど、そんなお顔も可愛い♡というエピソードです。
上よりおるる途に、弁の宰相の君の戸口をさしのぞきたれば、昼寝したまへるほどなりけり。萩、紫苑(しおん)、いろいろの衣に、濃きがうちめ心ことなるを上に着て、顔はひき入れて、硯(すずり)の筥(はこ)にまくらして、臥(ふ)したまへる額つき、いとらうたげになまめかし。絵にかきたるものの姫君の心地すれば、口おほひを引きやりて、「物語の女の心地もしたまへるかな」といふに、見あけて、「もの狂ほしの御さまや。寝たる人を心なくおどろかすものか」とて、少し起きあがりたまへる顔の、うち赤みたまへるなど、こまかにをかしうこそはべりしか。
おほかたもよき人の、をりからに、またこよなくまさるわざなりけり。
※『紫式部日記』より
常識人(というか御局様気質)?の紫式部にしては、かなり大胆なことをしでかしています。
しかし思わずそうしたくなってしまう可愛さと、それを許してしまう豊子の優しさがなせる業だったのでしょう。
「もうっ、謝るまで許さないんだからっ!」
仕事は出来るけど親しみやすく、同僚や部下たちから慕われる。そんな人望厚い愛されキャラだったのかも知れませんね。
■亡き夫を偲ぶ

豊子と交流があった赤染衛門の夫・大江匡衡。菊池容斎『前賢故実』より
そんな豊子は和歌にも巧みで、『後拾遺和歌集』に1首が入選しています。
赤染、匡衡に遅れ侍りて後、五月五日に詠みてつかはしける 美作三位【意訳】墨染(僧侶の法衣)の袂はとても濃地で色濃く、菖蒲(あやめ)の根が繁っています。
墨染の袂はいとどこひぢにてあやめの草のねやしげるらむ
※『後拾遺和歌集』哀傷 582
【真意】夫を喪い出家したものの、恋しさを袂(たもと)に抱えながら独り寝ています。
※解釈は諸説あり。
濃地を恋路にかけ、菖蒲の根に寝をかけて独り寝の寂しさを詠んだのでした。
注釈にあるとおり、豊子は赤染衛門(あかぞめゑもん)と大江匡衡(おおえの まさひら)夫婦と交流していたことが分かります。
二人は有名なおしどり夫婦でしたから、独り身の寂しさが身にしみたのかも知れませんね。
■終わりに

紫式部。土佐光起筆
今回は紫式部の親友・藤原豊子についてそのエピソードを紹介してきました。
果たして豊子はNHK大河ドラマ「光る君へ」に登場するのか、誰がキャスティングされるのか、今から楽しみですね!
※参考文献:
- 石井文夫ら訳・校註『新編日本古典文学全集26 和泉式部日記 紫式部日記 更級日記 讃岐典侍日記』小学館、1994年9月
- 上原作和『紫式部伝-平安王朝百年を見つめた生涯』勉誠社、2023年10月
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan
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