「松尾芭蕉(まつおばしょう)」といえば、俳句に詳しくないという人でも知っているほどの有名な江戸・元禄時代の俳人。

「俳聖」(俳句の神様とあがめられる人)と呼ばれるほどの、非常に才能のある優れた文化人です。


その芭蕉は若い弟子をこよなく愛した、江戸時代のボーイズラブ的男色家だったという話が伝わっています。

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松尾芭蕉像(葛飾北斎画)wiki

■土豪一族出身だった芭蕉

日本近世文学の最盛期の一つともいわれる元禄時代(1688~1704)に、俳人として大活躍した松尾芭蕉。

有名な俳句『閑さや岩にしみ入蝉の声』(しずかさや いわにしみいる せみのこえ)は、小学校低学年の教科書でも紹介されているので、非常に馴染み遣いですよね。

ボーイズラブの旅をした俳句の神様!松尾芭蕉は若い弟子を愛した男色家だった【前編】


「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」で知られる立石寺(photo-ac)

松尾芭蕉は、寛永21年(1644年)、伊賀国阿拝郡(今の三重県伊賀市)柘植郷(つげのごう)の、土豪出身・松尾与左衛門の次男として生まれました。

※阿拝郡のうち、上野城下の赤坂町(今の伊賀市上野赤坂町)や上柘植村(今の伊賀市柘植町)で生まれたという説もあり

松尾家は「平家の流れをくむ」とわれていましたが、苗字・帯刀こそ許されていたものの身分は武士ではなく農民階級だったそうです。

■2歳年上の主君であり文学青年だった人との出会い

松尾芭蕉は、わずか13歳で父親が亡くし、非常に貧しい生活を送らざるおえなかったそうです。

19歳のとき、津藩(つはん/今の三重県津市)の藩主・藤堂良勝(とうどうよしかつ)の7男で、2歳年上の藤堂良忠(とうどうよしただ)の奉公人となり台所用人、料理人として仕えるようになりました。(諸説あり)

藤堂良忠は俳句を愛したそうで、芭蕉を句会に参加させたり京都の北村季吟に師事したりと、共に本格的に俳諧の道へ歩んで行ったそうです。

ボーイズラブの旅をした俳句の神様!松尾芭蕉は若い弟子を愛した男色家だった【前編】


江戸時代前期の歌人、俳人、北村季吟。松尾芭蕉、山口素堂など優れた門人を輩出(wiki)

趣味が合いお互いの才能に惹かれあう若き二人良忠は藩主の御曹司、かたや芭蕉は貧しい農民の子。

良忠は一生の生業にしたいというほどの俳諧好きで、その才能は北村季吟も認めるところだったとか。仕える芭蕉も際立った才能を認められていました。


身分差はありながらも、二人は俳句を通して心を通じ合わせ、友情を超えた男色の関係にあったのではないかという説もあるのもうなずける話です。

当時、若い武士の間では男色は珍しくない時代。互いに才能を認め合う同士の間に男色があったとしても決して不思議でないでしょう。

ところが、芭蕉が22歳の頃、藤堂良忠は24~25歳という若さで亡くなってしまいます。愛しい人の死はショックだったのでしょう。いずれにせよ、この主人の死がきっかけとなり芭蕉は、藤堂家を去ったようです。

■「私も昔は衆道好き」だった

芭蕉は29歳で、初の出版物『貝おほひ』という俳諧集を出します。

その中の句に

我も昔は 衆道好きの ひが耳にや
(わたしも、昔は衆道好きの 僻みっぽい 人間だった)

というものがあります。これが、「芭蕉は男色家だ」といわれる所以になっているそうです。(単に句のやりとり上のお遊びとする説も)

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女形の陰間(男娼)と男性との接吻。宮川一笑(wiki)

芥川龍之介も「芭蕉衆道説」を芥川龍之介も『芭蕉雑記』の「衆道」という章の中で、

芭蕉もシエクスピイアやミケル・アンジエロのやうに衆道を好んだと云はれてゐる。この談は必しも架空ではない。
元禄は井原西鶴の大鑑を生んだ時代である。

芭蕉も亦或は時代と共に分桃の契(※)を愛したかも知れない。現に又「我も昔は衆道好きのひが耳にや」とは若い芭蕉の筆を執つた「貝おほひ」の中の言葉である。

その他芭蕉の作品の中には「前髪もまだ若草の匂かな」以下、美少年を歌つたものもない訳ではない。

と書いています。

※分桃の契:「余桃の罪」と呼ばれ、君主の寵愛は気まぐれなことのたとえ。君主の寵愛を受けていた美貌の男性・弥子瑕(びしか)は、果樹園の桃があまりにも美味だったので、半分を君主に分け与えたところ、褒め称えられたが、年齢を経て容貌が衰えると食い残しの桃を与えたと刑を処せられてしまったという話。

また中国では「桃を分ける」「分桃(フェンタオ)」は男性同士の愛の代名詞とされています

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君主霊公に寵愛されていた男性・弥子 瑕(びし か)(wiki)

■芭蕉が愛した弟子との紀行文はロマンティックな句が

延宝6年頃(1678年/35歳)に「宗匠」となり、いわば職業的な俳諧師となった芭蕉は、37歳の頃には江戸深川隅田川畔に「草庵」を結びました。

庭に芭蕉の株を植えたところ大いに茂ったことから、庵が「芭蕉庵」と呼ばれるようになり、俳号としても「芭蕉」を好んで用いるようになりました。

この頃芭蕉には、20人ほどの門弟がいたそうですが、芭蕉はお気に入りの弟子を連れて旅によく出かけていたそうです。

ボーイズラブの旅をした俳句の神様!松尾芭蕉は若い弟子を愛した男色家だった【前編】


芭蕉と『奥の細道』における奥州・北陸の旅に同行した弟子河合曾良の像(立石寺)(photo-ac)

特に坪井杜国(つぼいとこく)と越人(えつじん)という愛弟子とのボーイズラブのような旅行は、その男色ぶりをうかがわせる句が盛り込まれています。

たとえば、芭蕉44歳~45歳に出された『笈の小文(おいのこぶみ)』という俳諧紀行文の中に

寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき

という句があります。
冬に、弟子の越人と道中泊まったときの句で、本当のところは定かではありませんが、寒さは厳しいけれども「二人で寄り添って寝ていると、伝わってくる体の熱で、身も心も頼もしく暖かい」というニュアンスだという解釈もあります。

ボーイズラブの旅をした俳句の神様!松尾芭蕉は若い弟子を愛した男色家だった【前編】


『三日月の頃より待し今宵哉』(月岡芳年『月百姿』) 松尾芭蕉

随所に男色愛が散りばめられている芭蕉の句。【後編】に続きます。

【後編】の記事はこちらからどうぞ!


俳句の神様・松尾芭蕉は若い弟子を愛した男色家だった! ~ 愛する弟子とのボーイズラブ旅【後編】
ボーイズラブの旅をした俳句の神様!松尾芭蕉は若い弟子を愛した男色家だった【前編】


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