幽玄閑寂の独自の俳風を確立し、さまざまな名作俳句を残したこと、日本各地を旅した俳句の紀行文を残したことなどの功績は大きく、世界的にも有名な日本史上最高の俳諧師として知られています。
そんな芭蕉ですが、若い頃から男色・衆道を好んでいたという説があるのです。
【前編】の記事はこちら:
ボーイズラブの旅をした俳句の神様!松尾芭蕉は若い弟子を愛した男色家だった【前編】
中年期には、お気に入りの弟子との「ボーイズラブ」のような旅行を楽しんでいたり、愛する弟子の夢を見て恋しくて涙したりなどの様子が作品に記されています。

「芭蕉翁桃青 市川海老蔵」歌川国貞
■美しい弟子・坪井杜国に惚れ込む芭蕉
芭蕉というと、質素で孤高なイメージを持つ人も多いのですが、実は弟子が多い人で、自分の考えを押し付けることなく違う考えを持つ弟子も歓迎したそうです。
中でも「恋の相手」としても一番可愛がっていたとされているのが、「坪井杜国(つぼいとこく)」。
杜国は、御園町(今の岐阜市美園町)の町代を務めるほどの富裕な米穀商でした。
貞享1(1684)年、松尾芭蕉に入門しますが、翌年、空米売買の罪に問われ名古屋を追放、流刑先の保美村(愛知県渥美町)に住むことになりました。
一説によると、この杜国は非常に美しい男性だったそうで、単純に弟子として可愛がっていただけではなく男色の相手としても惚れ込んでいたという話が伝わっています。
愛する弟子に会えた嬉しさが伝わってくる句

伊良湖岬と恋路ヶ浜(wiki)
芭蕉は杜国を訪ねて、流刑先の保美村を訪ねたときに以下の句を詠んでいます。
鷹一つ見付てうれし伊良湖崎
(気持ちよく広大な海が広がる伊良湖岬で鷹を一羽見つけた。何と嬉しいことだ)
というような句意で、この場合の鷹はもちろん実景の中で見付けた鷹ではありますが、
実は、鷹を愛する杜国になぞらえている……といわれています。
単純に「鷹を見れてうれしかった!」ではなく、流刑になった杜国が、尾羽打ち枯らした状態になってはいないかと心配していたものの、鷹のように気丈で強くあったうれしさ、やっと杜国に再会できたうれしさ、来年は二人で旅行にいく約束をしたことのうれしさなどが込められ、芭蕉がウキウキの喜びに溢れている句だという解釈なのです。

芭蕉が「鷹」に例えた杜国。
なんだか、この解釈のほうが、恋人に会った嬉しさがこちらにも伝わってきて、芭蕉という人が身近に感じますね。
実際に翌年、芭蕉は杜国とともに伊勢や吉野に旅行をしています。そのときの二人の句のやりとりも俳諧紀行文『笈の小文(おいのこぶみ)』に残されています。
よし野にて桜見せうぞ檜の木笠 (芭蕉)
よし野にて我も見せうぞ檜の木笠 (杜国)
芭蕉は、杜国を檜の木笠にたとえ「吉野の桜を見せよう」と嬉しさを伝え、杜国も「桜」を「我も」と、変えて「私も同じ想いでいる」と返しています。
相思相愛の仲、もしくはひょっとしたら芭蕉のほうが「恋人」としての想いが強く、杜国は芭蕉の想いに寄り添う気持ちと師への尊敬の念が混じっていたのかもしれません。
二人の関係がどれほど深いものだったのか、文献に記述されたものは残されていないようです。

二人が眺めたであろう吉野山の桜(wiki)
■愛する人と再び死に別れ悲しみを引きずる芭蕉

「芭蕉肖像真跡」渡辺華山
残念ながら、元禄3年(1690)、杜国は34歳の若さで死去します。芭蕉のほうが13歳年上でした。
弟子としても恋人としても、唯一無二の存在がいなくなった芭蕉の悲しみはいかばかりだったでしょう。
京都嵯峨にある向井去来の別荘・落柿舎(らくししゃ)に滞在中に綴った日記『嵯峨日記』には、
夢に杜國が事をいひ出して、悌泣して覚ム。
という記述があります。杜国が死後1年後のことですが、愛しい杜国が夢の中に出て、悲しみで涙を流して目が覚めたというような意味合いです。
さらに、
我夢は聖人君子の夢にあらず。終日妄想散乱の気、夜陰夢又しかり。誠に此ものを夢見ること所謂念夢也。
我に志深く伊陽旧里迄したひ来りて、夜は床を同じう起臥、行脚の労をともにたすけて、百日が程かげのごとくにともなふ。
ある時ははたはぶれ、ある時は悲しび、其志我心裏に染て、忘るゝ事なければなるべし。覚(さめ)て又袂(たもと)をしぼる。
と続きます。つまり、自分の夢は聖人君子の夢のようではなく、昼間は1日中妄想に囚われて心乱れている、夜の陰夢もそうだ。愛しい杜国は私を慕って伊賀の故郷まで来て、夜は床を同じくして寝起きし……
というような意味合いです。そして杜国恋しの想いのあまり、「目が覚めてまた涙に濡れた袂をしぼった」とあります。

『嵯峨日記』を書いた落柿舎(wiki)
この熱い心情は、師匠と弟子以上の情愛の深さがあったのだろうと感じられるのです。
俳句を詠むことに生涯を捧げた、ストイックで孤高の俳聖・松尾芭蕉。
元禄5年ごろ、京から戻った芭蕉は新築の芭蕉庵へ移り住みます。
そして元禄7年(1694年)の秋、大阪を目指して旅立ちますが体調を崩し、南御堂門前にあった花屋仁左衛門宅に病床を移しますが、10月12日夕刻に51歳の生涯を閉じました。
その死の4日前に口述筆記させたというのが
「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」
これが最後の俳句となったのです。いろいろな解釈がありますが「旅の途中に病に臥しているが、夢に見るのは今なお枯野を駆け巡る自分自身だ」と捉える説が多いようです。自分自身だけではなくその隣には、愛弟子・杜国が寄り添っていたのではないでしょうか。

松尾芭蕉終焉の地大阪の石碑(photo-ac)
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