まひろ(紫式部)の前に現れた恋多き女性・あかね(和泉式部)。当時「親王様」と熱愛中で、自由奔放に楽しんでいる様子が描かれました。
大河ドラマ「光る君へ」公式サイトより
和泉式部の恋人である「親王様」とは敦道親王(あつみち)のこと。果たしてどんな人物だったのでしょうか。
そこで今回は敦道親王について、その生涯をたどってみたいと思います。
※あわせて読みたい!
【光る君へ】ついに恋多き女流歌人「和泉式部」登場!彼氏の弟も愛しちゃう自由奔放すぎる彼女の逸話を予習!

■二人の妻たち

敦道親王(イメージ)
敦道親王は天元4年(981年)、冷泉天皇の第4皇子として、藤原超子(ちょうし/とおこ)との間に誕生しました。
超子は藤原道長の姉であり、敦道親王は道長の甥に当たります。
同母兄弟には光子内親王(こうし/みつこ)・居貞親王(いやさだ/おきさだ。三条天皇)・為尊親王(ためたか)がおり、敦道親王は末子でした。
外祖父の藤原兼家から大変に可愛がられてすくすく成長。13歳となった正暦4年(993年)に元服、四品(しほん。親王の位階)に叙せられます。
加冠(成人の証である冠を被せる役)を左大臣の源雅信が、髷を結う理髪を参議の藤原公任が務めました。
やがて大宰帥(だざいのそち)、すなわち大宰府の長官に任じられたことから、帥宮(そちのみや)と呼ばれるようになります。
ちなみに大宰府の現地に赴任することはなく、実務上のトップは大宰権帥(ごんのそち)が務めました。
やがて中関白・藤原道隆の三女を妃に迎えますが、相性が悪かったのか間もなく離婚してしまいます。
もしかしたら、中関白家の没落を悟って早々に切り捨てたのかも知れません。
後に藤原済時の娘と再婚、正妃に迎えます。
■和泉式部との関係

和泉式部(画像:Wikipedia)
しかし長保4年(1002年)に兄の為尊親王が薨去すると、その恋人であった和泉式部に懸想するようになったのです。
アプローチの末に長保5年(1003年)夏ごろから交際開始。同年12月18日には召人(めしうど。愛人)として自邸に連れ込んだため、正妃(済時女)は激怒。出ていってしまいました。
妻と愛人を同居させようなんて、尋常の神経ではありません。また事情を知りながら同居しようとする和泉式部も大概ではないでしょうか。
ちなみに和泉式部は為尊親王と不倫をした時点で父親の大江雅致(おおえの まさむね)から勘当されていたものの、夫である橘道貞(たちばなの みちさだ)とは離婚が成立していません。
ともあれ二人の間には男子が生まれ、岩蔵宮(いわくらのみや)と呼ばれました。のち出家して永覚(えいがく)と号します。
寛弘4年(1007年)4月に三品(さんぼん。三位)へ昇叙した敦道親王。しかし同年10月2日、敦道親王は27歳の若さで薨去してしまいました。
若くして世を去った敦道親王。叔父の道長はかつて亡き父・兼家が寵愛していたことを思い出し、兼家ゆかりの法興院で七々日(四十九日)の法要を執り行ったそうです。
■終わりに
敦道親王との死別も和泉式部は源雅通や治部卿(じぶのきょう。源俊賢か)とも恋仲が噂され、やがて橘道貞と離婚しました。
そして道長の家司を務める藤原保昌(やすまさ)と再婚。晩年から最期について詳しいことはよく分かっていません。
NHK大河ドラマ「光る君へ」ではセリフで言及されるのみですが、果たして敦道親王は登場するのでしょうか。
登場するなら誰がキャスティングされるかも含め、楽しみですね!
※参考文献:
- 上田正昭ら編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年1月
- 武田早苗『和泉式部』勉誠出版、2006年7月
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan