刀狩りは、太閤検地と並ぶ豊臣秀吉の代表的な政策です。農民の刀剣や鉄砲を全国的に没収した政策として、歴史の授業で必ず習う出来事なので覚えている方も多いでしょう。
豊臣秀吉(Wikipediaより)
実は、その刀狩りの解釈が、近年では大きく変化しています。
かつては刀狩りによって、農民は武器を徹底的に没収され武装解除を強要されたと考えられていました。
その理由として、乱世の農民は野盗や戦乱に備えて武器を所持していたが、被支配層に武装を許していては安定した統治は難しいからです。そこで秀吉は刀狩りを実施して、農民の武装を解除した……というのがこれまでの通説でした。
しかし現在では、なんと「刀狩りの目的は農民から武器を没収することだった」という説は否定されています。
刀狩りとして農民の武器没収が行われていたのは事実ですが、実はそれほど徹底されていなかったのです。
その証拠に、江戸時代に入ってからも弓や鉄砲を所持する村落は多く存在していました。そうでなければ、寛永14年(1637)に起きた島原の乱で多くの武器が使われたことは説明がつきません。

島原城の天草四郎像
また、1700年代の信濃国松本藩では、領内の村落で1000挺以上の鉄砲の存在が確認されています。
狩りや害獣への威嚇用だったとはいえ、その気になれば人を殺すことができる代物を、農民たちは持ち続けていたのです。
では、秀吉による刀狩りの真の目的と、その実態はどのようものだったのでしょうか。
■実は徹底していなかった
そもそも刀狩りでは刀剣類の回収が重視され、畿内以外では鉄砲や弓の没収はあまり熱心に行われなかったとされています。
秀吉の臣下である溝口秀勝は、没収した武器類を送ったところ「刀が少ない」と奉行から叱られたといいます。

溝口秀勝(Wikipediaより)
また、薩摩家当主の島津義弘は「武器の没収量が少ないと奉行に怪しまれるので、もっと刀や短刀を送ってくれ」と国許に手紙を書いています。
ここで重要なのは、「刀狩り」というくらいですから刀や短刀を没収するのは当然のようですが、あくまでも当時の戦争においては槍や鉄砲が主兵装であり、刀は副装備品でしかないという点です。
にもかかわらず、なぜ刀狩りでは「刀」の没収が重視されたのでしょう。
それは刀狩りが、農民の武器所有は認めつつ帯刀権の規制を求めるものだったからだと考えられます。
現代の感覚では、刀は武士の魂だというイメージが強いですが、実は戦国時代の農村の成人男性にとっても、刀は特別なシンボルでした。
■刀狩りが目指したもの
秀吉としては、武士以外の帯刀を規制し、狩猟や害獣駆除など必要に応じて武器使用を許可することで、農村の武器使用を抑制しようとしたのでしょう。
実際、刀狩りの後で、農民の武力行使を禁じる喧嘩停止令を出したのも、武器使用の制限を強化するためでした。
戦国の荒々しい気風が残るなかでは、農村からすべての武器を回収できるとは、おそらく為政者たちも考えていなかったのでしょう。
当時の農村では、大名の呼びかけに応じて農民が戦場に動員されるのが一般的でした。そして動員される農民は丸腰のまま参加するわけではなく、自ら武器を携えるのが普通でした。
また軍役衆という有力農民もおり、農村には武器が日常的に蓄えられていたのです。
それに武器は祭礼や害獣駆除のためにも使用され、農村の生活と不可分のものでした。秀吉が武器を徹底的に没収するよう命じなかったのは、こうした事情を考慮に入れたからだと考えられます。
まとめると、刀狩りは、徹底的に全ての武具類を没収して農民の武装解除を強要するものではありませんでした。
あくまでも「刀剣」というシンボルを没収することで、農民たちの戦闘行為や武力行為を部分的に制限することが目的だったのです。
参考資料:日本史の謎検証委員会・編『図解最新研究でここまでわかった日本史人物通説のウソ』彩図社・2022年
画像:photoAC,Wikipedia
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