戦国時代の戦国大名がそれまでの守護大名と異なるのは、幕府からの自立を志向していたかどうかという点です。
戦国大名の代表格の一人・武田信玄
守護大名は、領国の支配に室町幕府の権威を利用していましたが、逆に、戦国大名は室町幕府からの自立を図るために自ら検地を行いました。
検地とは、田畑の面積と収穫量を調査することです。検地の結果から、戦国大名は自らの裁量によって年貢を決定しました。
この検地、当初は土地の所有者が自発的に調査結果を報告するだけのものでしたが、やがて、大名の家臣が奉行として直接的に調査することで、家臣団を掌握していったのです。

家臣団イメージ
また、戦国大名は、必ずしも一国を領有していたわけではありません。
国によって広さは異なっているので、一国のうちのおおむね2郡以上を支配している領主が戦国大名と呼ばれます。このため、1郡程度を支配する領主は一般的には国人(こくじん)と呼ばれ、戦国大名に従属する立場にありました。
この基準に従うと、日本全国でおよそ150家の大名が存在していたことになります。
■家臣団に忠誠心は不要!?
さらに戦国大名は、幕府からの自立の証として、領国内のみ通用する分国法を定めていました。
室町幕府は全国に適用する法を制定していましたが、戦国大名は幕府の法を否定し、自ら制定した分国法に基づいて領国を支配しようとしたのです。
そしてこの分国法は、家臣に適用されたばかりでなく、大名自身も遵守したのです。権力者による強権的な支配ではなく、各大名は分国法の設置によって法治国家としての統治をめざしたのでした。
ところで、戦国時代における戦国大名と家臣は「御恩」と「奉公」にもとづく主従関係で成り立っていました。
「御恩」というのは、主君が家臣に知行を安堵すること。「奉公」は、その「御恩」に対して合戦で負担する軍役を指します。
しかし戦国時代の主従関係は、江戸時代とは異なり、絶対的な忠誠心が求められていたわけではありません。

武田信玄からの「下克上」で追放された武田信虎の像
主君からの「御恩」に不満があれば、家臣は「奉公」をやめることも可能でした。そのため、主君は家臣から忠誠を神仏に誓う起請文をわざわざ提出させたりもしていました。
こうした点も、いわゆる鎌倉時代や江戸時代の「御恩と奉公」の関係とは大きく違います。
■家臣の分類
そして戦国大名の直属家臣は、一門衆・譜代衆・外様衆に区分されることも大きな特徴です。
一門衆は、一族衆・御親類衆・御一家衆ともいい、いわば一族家臣のことです。譜代衆は、古くからの家臣で、大名家の一族でも血縁が遠い場合には譜代として扱われました。
そして外様衆は、新たに服属したもので、新参衆とも呼ばれました。

真田昌幸の肖像。真田家の家臣団は、一門衆、普代衆などで構成されていた(Wikipediaより)
家臣は、国衆あるいは国人とよばれるような独立した領主でありました。
譜代・外様などの区別は、その後も江戸時代に引き継がれていったのはご承知のとおりです。
こうした直属家臣の下に軍役衆という形で土豪が属することで、家臣団は成り立っていました。土豪というのは、平時は農作業に従事しながら戦時には合戦にかりだされる半農半士のことです。
それぞれの大名家では、一門衆・譜代衆・外様衆からなる重臣を寄親(よりおや)、その配下に属する軍役衆を寄子(よりこ)とする関係が作られていました。
寄親と寄子は、いわば犠牲的な親子関係にあったと言えます。直接の主従関係にないものの、戦時には寄親が寄子を統率し、戦国大名の命令は、寄親から寄子に伝えられました。これを、寄親・寄子制といいます。
この寄親・寄子制は江戸時代には消滅したものの、下級役人の「与力(よりき)」などのように、役職名などに名残が残ったりしました。
※あわせて読みたい
【武将の就活】戦国大名の家臣は簡単に再就職ができたのか?戦国時代の官職について解説

参考資料:
『歴史人 2022年5月号増刊 図解・戦国家臣団大全』2022年5月号増刊、ABCアーク
画像:photoAC,Wikipedia
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