興福寺別当
定澄(じょうちょう)
赤星 昇一郎(あかぼし・しょういちろう)
藤原氏の氏寺である興福寺の別当。
興福寺の僧興福寺といえば大和国(現代の奈良県)を代表する名刹の一つとして有名ですね。
慶理(きょうり)
渡部 龍平(わたべ・りゅうへい)
藤原氏の氏寺である興福寺の僧。
※NHK大河ドラマ「光る君へ」公式サイトより。
そこの別当(長官)である定澄(じょうちょう)と、定澄に仕える慶理(きょうり)とは、果たして何者なのでしょうか。
そして大河ドラマのストーリーと、どのような形でからんでくるのかも気になりますね。今回は定澄と慶理について予習しておきましょう。
■大和国で権勢を振るう
修行を積む定澄(イメージ)
定澄は左京に住む壬生(みぶ、みのぶ)氏の子として誕生しました。
17歳となった延喜19年(919年)に出家し、仁和寺別当の寛空(かんくう)や興福寺別当であった空晴(くうせい)の下で修行を重ねます。
長徳元年(995年)に権律師(ごんのりっし)となり西大寺の別当を務めました。
長保元年(999年)には興福寺の権別当、翌長保2年(1000年)に正式な別当となったのです。
また権少僧都(ごんのしょうそうず)として龍蓋寺(りゅうがいじ)や龍門寺(りゅうもんじ)の別当も兼任しました。
興福寺の別当は大和国内において絶大な影響力をもっており、長保元年(999年)には朝廷に対して「大和国内の賊を追捕するため、検非違使を派遣」するよう要請しています。
果たして朝廷から派遣された検非違使について綱紀粛正を命じられました。
興福寺別当とは、大和守(大和の国司)をもしのぐ権威として国内を統治していました。
長保4年(1002年)には内裏の清涼殿で初めて最勝講が執り行われた際の講師を務め、長保5年(1005年)には権大僧都(ごんのだいそうず)に昇ります。
■大和守との抗争

大和守解任を求め、京都洛中へ乗り込む僧兵たち(イメージ)
かくして大和国の実質的な統治者として権勢を誇った定澄。
「興福寺とは争うな」
それが大和守はじめ官人たちにとって暗黙の了解でしたが、寛弘3年(1006年)に着任した大和守・源頼親(よりちか)は違いました。
源頼親は清和源氏の流れをくむ源満仲(みつなか)の子。後に藤原道長から「殺人上手」と評された武勇の士です。
着任から間もなく頼親は興福寺と所領争いを起こし、互いに一歩も引きません。
定澄は朝廷の藤原道長に対して頼親の解任を要求しました。
しかし道長は気乗りがしなかったのか、なかなか解任には至りません。
業を煮やした定澄は、寺僧ら二千余人を動員して京都洛中へ殴り込む騒ぎを起こしました。
慶理はこの時に参加した荒法師(僧兵)の一人なのでしょう(※詳細不明、恐らく創作人物と思われる)。
寛弘8年(1011年)には大僧都(だいそうず)となった定澄。しかし興福寺の大和守の抗争は絶えず、寛弘6年(1009年)には寺僧が大和守・藤原輔尹(すけただ)の従者を殺害してしまいます。
これについて定澄は弁解に努めたものの、道長は「山門と国司の抗争が絶えないのは別当の監督責任だ」と叱責しました。
■その後

道長と定澄(イメージ)
何かにつけて周辺勢力との抗争が絶えなかった興福寺ですが、それでも定澄は藤原氏の信仰を得てその仏事に供奉します。
長和4年(1015年)に疫病平癒の臨時仁王会が執り行われた際には総講師を務め、同年10月には道長の50歳を祝う五十の賀において導師を務めました。
しかし急病を発したために辞去し、同年11月に遷化(せんげ。高僧が亡くなること)します。
■終わりに
今回は興福寺別当の定澄と、同寺の僧侶である慶理について紹介してきました。なかなか癖の強い坊さんだったようですね。
果たしてNHK大河ドラマ「光る君へ」ではどのような関わりが描かれるのか、また興福寺と抗争を繰り広げた「殺人上手」源頼親も登場に期待しています。
※参考文献:
- 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第二編』 9巻、東京大学出版会、1970年11月
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