大和国・興福寺の別当として活躍した定澄(じょうちょう)。当時大和国内で絶大な権力を誇り、国司をもしのぐ勢いでした。


寛弘3年(1006年)には対立する大和守・源頼親(よりちか)の解任を要求するため、寺僧ら二千余人を率いて強訴(ごうそ。力づくで要求を押し通すこと)を敢行します。

そんな定澄はたいそう高身長だったそうで、しばしば話題のタネになったとか。

今回は清少納言『枕草子』より、こんなエピソードを紹介したいと思います。

大河ドラマ「光る君へ」の物語にどう絡むのか?興福寺の僧侶・定澄(赤星昇一郎)と慶理(渡部龍平)とは何者?
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■大木を扇にするほど?

どんだけ大きいの!清少納言『枕草子』より、大木を扇にするほど?の高身長だった僧侶・定澄【光る君へ】


楢の木。これを扇に使える人は、どれくらいの身長だろうか(イメージ)

(九)今内裏の東(ひむがし)をば、北の陣といふ。ならの木のはるかに高きを、「いく尋あらむ」など言ふ。権中将「もとよりうち切りて、定澄僧都の枝扇にせばや」と、のたまひしを、山階寺の別当になりてよろこび申す日、近衛づかさにてこの君のいでたまへるに、高き屐子(けいし)をさへはきたれば、ゆゆしう高し。出でぬる後に「など、その枝扇をば持たせたまはぬ」と言へば、「もの忘れせぬ」と笑ひたまふ。
「定澄僧都に袿(うちき)なし、すくせ君に衵(あこめ)なし」と言ひけむ人こそ、をかしけれ。

※清少納言『枕草子』より

【意訳】時は長保2年(1000年)3月、仮御所の東を北の陣と呼んでいました。

そこには大きな楢(ナラ)の木(一説に梨の木)が植わっており、人々は「幾尋(いくひろ)あるだろうか」と口々に言い合います。


ある時、権中将(ごんのちゅうじょう)こと源成信(なりのぶ)が軽口を飛ばしました。

「この木を根元からぶった切って、定澄僧都(~そうず)の枝扇にしたらよかろうな」

枝扇(えだおうぎ)とは木の枝をそのまま扇のようにあおぐこと、またはその枝を言います。

木を丸ごと扇のようにあおげるほどの大男。もちろん冗談ながら、それだけ定澄は高身長でした。

やがて月日は流れ、定澄が山階寺(興福寺)の別当となった祝いの儀式で、成信は定澄の姿を目にして驚きます。

ただでさえ背丈が高い定澄が、さらに屐子(けいし)を履いているものだから、見上げて首が痛くなるほどでした。

いやはやこれは……成信が面食らっていると、清少納言がやってきてからかいます。

「なぜ枝扇を定澄僧都に貸してあげなかったのですか?」

これを聞いて成信は苦笑い。「まったく、余計なことばかり覚えておるな」と。

世に「定澄僧都に袿(うちき)なし、すくせ君に衵(あこめ)なし」と言うが、まったくその通りだと思う。

……ということでした。

■終わりに

どんだけ大きいの!清少納言『枕草子』より、大木を扇にするほど?の高身長だった僧侶・定澄【光る君へ】


背が高すぎて収まりきらない定澄僧都(イメージ)

背の高い定澄が袿を着ても、丈が足りないので袿となりません。
その一方で背の低いすくせ君(詳細不明。すひせい君とも)が衵を着ても、丈が余りすぎて衵の役目をなしません。

そんな慣用句が出来るほど、定澄は背が高かったのですね。

実際どれほどの高さだったのかは不明ですが、かなり堂々としたいでたちだったことでしょう。

果たしてNHK大河ドラマ「光る君へ」では、定澄がどんな活躍を描くのか、赤星昇一郎の演技に期待ですね!

※参考文献:

  • 石田譲二 訳注『新版 枕草子 上巻』角川ソフィア文庫、1979年8月

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