軍事貴族 平致頼(たいらのむねより)第33回放送「式部誕生」で、平維衡(これひら)と共に言及された平致頼。同族でありながら骨肉の争いを演じた彼は、どういう人物だったのでしょうか。
中村織央(なかむら・おずの)
平安時代中期の軍事貴族。伊勢国に勢力を張り、同族の平維衡と争った。
※NHK大河ドラマ「光る君へ」公式サイト(登場人物)より。
藤式部(まひろ)の女房生活は前途多難?大河ドラマ「光る君へ」9月1日放送の振り返り
今回は中村織央が演じる平頼について、その生涯をたどってみたいと思います。
■平致頼とその一族

桓武平氏の祖・葛原親王(平高望の父)。菊池容斎『前賢故実』より
平致頼は生年不詳、平氏の一族である平公雅(きみまさ)の五男として誕生しました。
【平致頼・略系図】兄弟には平致利(むねとし。正五位下・出羽守)・平致成(むねなり。従五位上・出羽守)・平致光(むねみつ。大宰大監)・平致遠(むねとお。従五位下)がいます。
……平高望-平良兼-平公雅-平致頼……
※『尊卑分脈』第十六巻による。
従五位下・備中掾(びっちゅうのじょう。国司の三等官)の官位を有していたことから平五大夫(へいごたいふ)と号しました。
平五とは平氏の五男、大夫は四~五位の位階を持つ者を指します。
同族の平維衡とは、三代遡ると祖先を同じくする又従兄弟(はとこ)同士の関係でした。
【平維衡・略系図】また致頼の子供には平致経(むねつね。左衛門大尉)・平公親(きみちか。内匠允)・平公致(きみむね)などがいます。いずれも妻は不明です。
……平高望-平国香-平貞盛-平維衡……
■天下之一物・道長四天王に数えられる

武勇にすぐれた平致頼(イメージ)
平致頼は武勇にすぐれ、後世「天下之一物(大江匡房『続本朝往生伝』)」と讃えられました(ほか源満仲・源満政・源頼光・平維衡)。
また藤原道長に仕える道長四天王(藤原保昌・源頼信・平維衡・平致頼)の一人にも数えられています。
しかし又従兄であった平維衡とは仲が悪く、伊勢国においてしばしば権力抗争を繰り広げました。
恐らく四天王とは言っても、同じ主君の下で力を合わせたというより、武力自慢の荒くれ者上位4名といった感じだったのではないでしょうか。
伊勢国における同族抗争があまりにひどいため、長徳4年(998年)には朝廷から出頭命令が下ります。
平維衡は朝廷の意向をくんでただちに過状(かじょう。始末書)を提出。反省の色を示したのに対し、致頼は朝廷に忖度することなく意地を張り通しました。
その結果として平維衡は軽めの罰ですまされます。それに対して致頼は位階を剥奪された上で隠岐国へと配流されてしまったのです。どうやら平維衡の方が世渡り上手だったのでしょう。
配流から3年後の長保3年(1001年)、致頼はようやく罪を赦され、五位に復帰できたのでした。
■道長暗殺計画に加担?

道長暗殺を狙った?藤原伊周(画像:Wikipedia)
晴れて京都へ舞い戻った平致頼。しかし寛弘4年(1007年)8月、道長暗殺計画に加担したという噂が流れました。
道長暗殺計画の黒幕は道長の政敵であった藤原伊周・藤原隆家兄弟。
また姉妹婿の有道維広(ありみち これひろ)が伊周・隆家の亡き父・藤原道隆に家司として仕えていたという伝手もあったようです。
しかし暗殺計画が実行されることはなく、道長の身辺に危険が及ぶことはありませんでした。あくまで噂に過ぎなかったのでしょう。
そして寛弘8年(1011年)10月2日に卒去したのでした。
■終わりに
致頼 備中丞従五下【意訳】長保元年(1000年)に平維衡と合戦した事に依り隠岐へ配流される。寛弘8年(1011年)10月2日に卒去した。
長保元与維衡依合戦事配流隠岐寛弘八十二卒
※『尊卑分脈』第十六巻 平氏より
……今回は道長四天王の一人・平致頼について、その生涯をたどってきました。
四天王とは言っても道長の忠僕だったわけではなく、いつ弓引いてくるか油断のならない存在だったようです。そもそも生前からそう呼ばれた訳ではないでしょうし……。
果たしてNHK大河ドラマ「光る君へ」では、どんな暴れぶり?を見せてくれるのでしょうか。中村織央の熱演に期待しています!
※参考文献:
- 藤原公定 撰『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集 第15‐18巻』国立国会図書館デジタルコレクション
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