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その新選組の中で最も個性的なエピソードが多い人物の1人が、槍の名手でもある原田左之助(はらださのすけ)です。

大河ドラマ『新選組!』では奇しくも2019(平成31)年より「れいわ新選組」の代表となる山本太郎氏によって演じられ、一時期は「坂本竜馬暗殺の犯人」と疑われたこともある原田左之助は、1840(天保11)年に、伊予松山藩(現在の愛媛県松山市)で誕生しました。
最初は藩に奉公人として勤務していましたが、その後藩を飛び出して種田宝蔵院流槍術の免許皆伝を受け、新選組の一員となり十番隊の組長に任じられました。
池田屋事件、禁門の変、油小路事件などをはじめとする新選組が関わる戦いのほとんど全てに参加しましたが、後に新選組から離れて靖兵隊を結成し、彰義隊に参加して上野戦争で戦ったときの負傷がもとで1868(慶応4)年に29歳で亡くなったとされています。
しかし、日清・日露戦争のときに松山に「私は原田左之助だ」と語る老人が現れ、弟や甥と話をした後「満州へ帰る」と言って去ったという逸話も残っていて、そこから「左之助は上野戦争で死なずに新潟→下関→釜山→中国大陸へと渡り、馬賊の頭となった」という伝説も語られるなど、今に至るまで謎の残る人物なのです。
「切腹の作法も知らない」とバカにされて本当に腹を切って見せた!?
そんな左之助には「えっ!?」と驚くようなエピソードが残されています。
故郷で奉公していた頃、上司に当たる武士と口論になった際「腹を切る作法も知らない下司!」と罵られたことにキレ、なんとその場で本当に腹を切って見せたというのです。
一説には、彼が伊予松山藩を飛び出した原因が、まさにこのトラブルだったとも言われています。
そのときにできた傷は左之助的には「名誉の傷」だったようで、彼はその後も何かと腹の傷を「俺の腹は金物の味を知っているんだぜ」と自慢していた上、自身の家紋まで○に切腹の傷を表す横一文字を入れたものにしたというから驚きです。
短気でケンカっ早い性格だったことが伺えますが、その一方では新選組の隊士の中では珍しく、愛妻家で子煩悩な父親だったというエピソードも残されています。
「坂本竜馬暗殺の犯人説」の信憑性は?
そんな左之助や彼の参加していた新選組は「『近江屋事件』で坂本竜馬を暗殺した犯人では?」という疑いをかけられたことがあります。
その根拠は、以下のようなものでした。
・竜馬暗殺の犯人が松山なまりで「こなくそ」と叫んでいた
・犯行現場に残されていた鞘を、新撰組参謀の伊東甲子太郎が「左之助のもの」と証言した
・左之助は新選組が関わる大きな戦いに数多く参加していた
しかし現在では、竜馬を暗殺したのは京都見廻組であるという説が主流となり、左之助犯人説はほぼ否定されています。
そもそも、近江屋事件で命を狙われたのが本当に竜馬だったのかどうかさえ、実ははっきりしていません。犯人の目的は一緒に襲撃された中岡慎太郎の方で、竜馬は巻き添えになったのでは?という意見もありますが、真相は今も闇の中です。
参考
- Wikipedia「原田左之助」
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan