織田信長と言えば、自分の子供たちにかなり「ユニークすぎる名前」をつけたことが知られています。
不器用すぎる親心?織田信長が子供たちにつけたユニークすぎる名前を一挙紹介!
また後に「本能寺の変」を起こす家臣・明智光秀の頭を「このきんかん頭!」と罵倒し叩いたエピソードも有名です。

しかし、光秀と同じように信長の家臣だった豊臣秀吉に信長がつけたあだ名が、よく知られる「猿」よりもっとひどいものだったということは、あまり知られていないのではないでしょうか?
親の反対を押し切って恋愛結婚!でも浮気が止まらなかった秀吉
信長がつけた秀吉のひどいあだ名は、秀吉の正室ねねへ信長が送った手紙に書かれていました。
秀吉とねねは、当時としては珍しい恋愛結婚、それも「身分の違い」を理由としたねねの母からの大反対を押し切っての結婚でした。
よほどの大恋愛だったのでしょう。

しかしその後、ねねは女好きな秀吉の浮気に苦しめられることとなります。正室であるねねの他に秀吉が持った側室の人数は、淀の方などを含め15人くらいだったといわれています。
ある日ねねはたまりかね、夫の主君である信長を訪問した際に、秀吉の浮気癖のことを訴えたのでした。
「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」の狂歌で知られる、短気で気性が激しい信長に相談するくらいですから、ねねが相当追い詰められていたことが伺えます。
あのハゲネズミ…
その後信長がねねに訪問に対する礼状として送った手紙の中には、このように書かれていました。

「あのはげねずみが、あなたほど素晴らしい女性を他に見つけられるはずないのだから、妻らしく堂々として、嫉妬などしてはいけない」
ねねに対しては優しい心遣いを見せている信長ですが、秀吉のことはなんと「猿」どころか「ハゲネズミ」と呼んでいたのです。
さらに手紙の続きには
「この手紙は秀吉にも見せてやれ」
と書かれているので、秀吉本人もこれを読んだことでしょう。もしかしたら「なんと…『猿』の方がまだましではないか…」と思ったかもしれませんね。
しかし、信長に「ハゲネズミ」とまで呼ばれても、秀吉の浮気性はその後もおさまることはなかったようですね。
参考
- 織田信長 秀吉を「禿ねずみ」と呼んだ手紙が存在
- 豊臣秀吉の本当のあだ名は「サル」よりももっと“やばい”!?
- 【豊臣秀吉の子供は何人?】家運を決めた淀君の子供とその謎
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