この事件は江戸時代に職場内いじめが原因で起こり、事件後世間に大きな影響を与えました。
いじめの内容も壮絶で、どのような内容だったか知りたいって方もいるかと思います。
今回は、千代田の刃傷に至った経緯といじめの内容及び事件後のことをご紹介します。
■千代田の刃傷の中心人物は松平外記
徳川家斉/Wikipediaより
千代田の刃傷の発端となるいじめを受けていた人物、松平外記(本名;忠寛(ただひろ)は徳川家斉に仕える旗本でした。
性格は剛毅でありながら真面目で几帳面。
その性格ゆえに、当時の旗本で横行していた古参が新人を奴隷のように酷使する扱いに屈することなく、自身が持つ正しさを貫いたと言われています。
また、勤務先である西宮の書院番に着任早々、外記の父・松平忠順の後押しで追鳥狩(将軍の鷹狩)にて野生動物を誘導する勢子の指揮を執る拍子木役に抜擢。
これは本来の慣習を無視した人事であり、これらの要素が相まって古参から外記へのヘイトが大きく溜まっていきました。
ちなみに書院番とは将軍の馬廻衆(親衛隊)のことであり、外記は酒井山城守の組に所属していました。
■度重なるいじめに耐え切れず…

文政6年(1823)4月、追鳥狩の予行演習が実施されましたが、あろうことか外記は遅刻してしまいます。
この取り返しのつかない失態を犯した責任から自ら拍子木役を辞退し、病気療養を理由に自宅に引きこもりました。
そして、追鳥狩の翌日に職場復帰するも、外記に待っていたのは古参たちからの嫌がらせでした。
内容も外記を罵る悪口や無視、挙句の果てには弁当箱に馬糞を詰めるといった陰湿極まりないもの。
いじめと言っても過言ではない嫌がらせに堪忍袋の尾が切れた外記は、同年4月22日に同じ書院番に所属する本多忠重と戸田彦之進、沼間左京の3人を殿中にて斬殺。
その場に居合わせた者たちが狼狽し、殿中が大騒ぎとなった中で外記は自害して果てました。
■事件を隠ぺいするべく動く上司
この刃傷沙汰が発生した後、外記たちの上司である酒井山城守は周囲と共に事件を隠蔽すべく動きました。
事件をまとめる文書を書いた目付は、死者が出たことを記載せず、保身のために真実を書いた文書を封印文書として作成。本丸から来た侍医は、死亡者を危篤状態と偽る報告をするように頼まれ、一度は拒んだものの従いました。
ここまでの周到さで事件を無かったことにしようとしますが、外記が大奥に務める伯母にこれまでの嫌がらせを記した書き置きを残していたことで事件が発覚します。
■老中が下した刃傷事件の判決

水野忠成/Wikipediaより
事件を知った老中・水野忠成(ただあきら)は、慎重な詮議の末に斬りかかられた5人は所領削減と改易処分を言い渡し、一部は断絶する結末を辿りました。
また、酒井山城守は書院番頭を外されました。
殺害された者にまで重い処分を下すくらい忠成は、この事件を重く見ていたことがうかがえます。
外記の方は父の忠順が職を外されたものの、子の栄太郎が家督を継ぐことを許されました。
■模倣犯まで現れるくらいの反響が起こった

滝沢馬琴/Wikipediaより
外記の起こした刃傷沙汰は、瓦版と落書きによって民衆に知れ渡ります。
民衆たちは外記を取り押さえずに逃げ回った旗本たちを笑いものにしたと言います。
また、読本作者・滝沢馬琴の『兎園小説余録』に収められたり、歌舞伎狂言となったり、昌平坂学問所で外記を称賛する模倣犯が同様の事件を起こしたりと民衆たちにも大きな反響を与えました。
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