今回は平安時代の悪党・小藤太(ことうた)こと藤原高年(たかとし)のエピソードを紹介。
■献上品を強奪
犯行に及ぶ小藤太ら(イメージ)
時は万寿4年(1027年)、淀川の河尻(現:兵庫県尼崎市か)で強盗殺人事件が発生しました。
被害にあったのは筑前国高田牧(たかだのまき。現:福岡県福津市など)から運ばれてきた献上品です。
雑物を載せた荷駄が襲撃され、運搬に当たっていた高田牧の下人が1人射殺されてしまいます。
強盗犯は4人。その内の1人が小藤太ですが、後の3人については分かりません。
連中は荷駄を奪って逃走。しばらく行方をくらましたのでした。
その後奪われた雑物が返ってきたという記録はなさそうなので、恐らくそのまま売りさばかれなどしたのでしょう。
■逃亡の末に捕らわれる
そんなことがあった翌長元元年(1028年)9月、小藤太が捕らわれたという情報がもたらされました。
小藤太らは近江国甲賀郡(現:滋賀県甲賀市など)に本拠地を構え、しばしば上洛して馬などの強奪を繰り返していたと言います。
それがとうとう捕らわれたということで、被害者らはさぞかし喜んだことでしょう。
「あの甲賀の小藤太めが捕まったぞ」
「ヤツも焼きが回ったか」
「いよいよ年貢の納め時さ……」
さぁ悪党がどんな最期を遂げるのか。その前に一味の情報を聞き出して、芋づる式に悪党どもを一網打尽と思っていたのですが……。
■藤原彰子からの命令

上東門院(藤原彰子)。梅員筆
「拷問を禁ずるとは、一体いかなることか!」
いきなり下された命令に、獄吏(牢屋の役人)らは戸惑うばかり。拷問にかけなかったら、誰が本当のことなど自白するでしょうか。
「そうは言われても、太皇太后陛下の仰せであるから、仕方あるまい」
太皇太后(たいこうたいごう)とは先々代の皇后陛下を指します。ここでは藤原彰子(しょうし/一条天皇皇后)のことでした。
いくら小藤太が重罪人であっても、彰子が直々に禁じるならば、あえて拷問にかけることはできません。
仕方がないので、獄吏らは小藤太に優しく尋ねたことでしょう。
「なぁ小藤太、仲間はどこに逃げたんだい?」
「さぁねぇ~北の方角、いや南だったかな?」
マコトかウソかも分からない自白を聞き取りながら、獄吏らは頭を抱えたことと思われます。
■そして事件は有耶無耶に
やがて関白・藤原頼通から遣いが来て、小藤太の処遇について指示があったそうです。
指示の内容に関する記録は現存しないものの、恐らくは放免かごく軽い刑罰が言い渡されたのではないでしょうか。
結局は有耶無耶になってしまった淀川尻の強盗殺人事件。
それにしても、なぜ彰子はこんなに甘い処分をしたのか、不思議でなりません。
ちなみに高田牧は藤原実資ら小野宮家の所領でした。
もしかしたら、彰子は実家のライバルであった彼らにダメージを与えた小藤太らを保護したかったのかも知れません。
もともと道長・頼通政権は犯罪者に対して甘い対応をとることが多かったため、小藤太は命拾いしたようです。
その一方で、殺された下人の無念はいかばかりでしょうか。
事件の顛末を『小右記』に記した実資は、怒りのあまり詳しい内容まで書き残せなかったのかも知れませんね。
■そもそも藤原高年とは?その父親は?

馬強盗に励む高年ら(イメージ)
ちなみに小藤太こと藤原高年とは何者だったのでしょうか。
小藤太は藤原公行(きんゆき。上総介)の甥だそうですが、肝心の父親についてはよく分かっていません。
可能性として考えられる父親候補=公行の兄弟(藤原文行の男子)は以下の通りです。
- 藤原公光(きんみつ)
- 藤原公行
- 藤原脩行(ながゆき)
- 行禅(こうぜん/ぎょうぜん。僧侶)
- 太田公通(きんみち)
あるいは公行と結婚した妻方の甥である可能性も考えられそうです。
中級貴族の子弟として生まれ、所領を根城に強盗などで生計を立てていたのでしょう。
事件後の消息についても不明。どんな最期を遂げたのか、詳しい記録は見つかっていません。
■終わりに
今回は地獄の沙汰もコネ次第、ということで藤原彰子・藤原頼通らに助けられた?小藤太こと藤原高年のエピソードを紹介しました。
小藤太と彰子にどういうつながりがあったのかは分かりませんが、これでは世が改まるはずもありません。
千年経った令和の現代でも似たようなことはありそうですが、権威や権力に影響されない公正な社会の実現を期待します。
※参考文献:
- 倉本一宏『平安京の下級官人』講談社現代新書、2022年1月
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan