伊達政宗の右腕として有名な片倉小十郎景綱(かたくら-かげつな)には文武両道の息子、片倉重長(かたくら-しげなが)がいました。





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片倉重長/Wikipediaより



また、重長はイケメンだったということで主君と男色の関係だったり、ストーカーにもあっていたりしていました。






今回はそんな重長にまつわるエピソードをいくつか紹介します。





大坂の陣での功績により、ついたあだ名は「鬼の小十郎」





重長は天正12年(1584)に生まれます。慶長5年(1600)の白石城の戦いで初陣を飾り、父と共に戦場を駆け抜けました。





イケメン過ぎてあの有名武将からストーカー被害!戦国武将・片倉重長の難儀な男色エピソード
重長の父、片倉景綱/Wikipediaより



その後の大坂の陣では病で参戦できなかった父の代わりに一軍の将として先鋒を任され、大坂五人衆の1人である後藤又兵衛や薄田兼相(すすきだ-かねすけ)を討ち取ります。





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後藤又兵衛/Wikipediaより



このような戦果にも関わらず、父の景綱からは誉められることはなく、一軍の将なのにも関わらず敵将と刃を交え自身の命を危険にさらしたことに対して、説教を受けました。





それでも重長は世間から「鬼の小十郎」(小十郎の名は当主に代々引き継がれる通称)と呼ばれ、武名を轟かせます。また、真田幸村も重長の武勇を認めていました。











政宗からキスをされる





敵将からも認められる武を持ちながらも、イケメンだった重長は先も述べたように主君の伊達政宗と男色の関係がありました。また政宗が信頼を置いている景綱の子でもあるので、気にかけ方は尋常ではありませんでした。





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伊達政宗/Wikipediaより



それを具体的に示したのは、先ほど紹介した大坂の陣でのこと。





重長が先鋒として戦いたい旨を政宗に伝えたところ、政宗は重長の頬にキスをした後、涙を流しながら了承します。このキスに重長も涙を流しながら喜びました。






この時重長は31歳で政宗は47歳。いくつになっても2人の関係が色褪せていないことがわかります。











重長をストーカーしたのはあの人物!





また重長のイケメンぶりは、政宗だけではなく小早川秀秋も虜にしてしまい、ストーカーまがいの行為をされたこともありました。





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小早川秀秋/Wikipediaより



ことの発端は慶長6年(1601)、17歳だった重長が政宗に同行して京都に上り、豊臣秀頼と小早川秀秋に拝謁した時に起こりました。





秀秋は重長のことを見るや否や一目惚れしてしまい、どうしても関係を持ちたいがために重長をつけまわすようになります。





これに困った重長は東福寺に逃げ込みますが、事情を知っていた政宗からはこんな手紙が届きました。







嫌な理由は色々あるとは思うけど、一度くらいの関係なのだから我慢してくれないか。





主名に従わないのなら、親の首を斬らないといけないからよく考えるように。







この脅しに近い手紙を貰った重長のその後は記録が残っていないので、ご想像にお任せしたいと思います。





おそらく主命だからということで政宗の期待に応えたのではないかと思われます。





最後に





片倉と聞くと景綱を一番に浮かぶくらい印象的でしたが、重長の癖の強いエピソードによって景綱よりも印象深い存在になりました。





まさか他家の武将から関係を求められるとはだれも予想していなかっただろうと思います。






戦国時代では重長のようなスペックを持っていたら、引く手あまたのモテ男になると同時に他家の武将から関係を求められる生きづらい時代だったことがわかりました。





参考:武光誠『日本男色物語 奈良時代の貴族から明治の文豪まで』



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