この現象には「令和の米騒動」などの名前が付けられていますが、今回の記事では、1918年(大正7年)に起きた米騒動について、その背景を詳しくご紹介していきたいと思います。
騒動が起きたのは、単にお米の量が少ないから、という理由だけではありませんでした。
■大戦景気で経済は活発だったはずなのに……
第一次世界大戦によって、日本の経済は「大戦景気」と呼ばれる好景気を迎えていました。日本から海外への輸出が増え、特に重化学工業の分野では大きな発展が見られました。
「好景気」と聞くと、国民の生活も潤っていたように感じますが、実は、日本国内では生活必需品や物資や不足し、物価が上昇していました。
物価の上昇とともに、人々の賃金も上がっていれば問題はないのですが、そうはいかなかったのが当時の状況。実質賃金は上がらず、むしろ下がっていました。
そのため、国民の生活は苦しくなる一方だったのです。
■なぜ「お米」の値段が異常に上がったのか
値段が上昇していたもののなかでも、特に異常な値上がり幅を見せていたのが「お米」でした。

これは、1918年(大正7年)に政府がシベリア出兵の方針を決めたことが大きな理由です。
多くの兵士がシベリアに出兵するとなると、大量の食糧が必要になります。政府が米を買い集めることを見込んだ米商人たちは、後で高値で売るため、流通していた米を買いしめ、新たに売ることをやめたのです。
これにより、流通するお米が減り、米の値段はどんどん上昇していきました。
■警察や軍隊も出動する事態に
いわゆる「米騒動」は、富山県の漁村の主婦たちが米の移出を止めるために起こした行動が始まりと言われています。海岸に集まり移出禁止を求めたのです。
この集まりは警察によって解散させられましたが、次第に別の場所でも移出禁止や米の安売りを求めて行動する人が増えていきました。
この動きは全国に急速に広がり、警察だけでなく軍隊も出動して鎮圧をしました。
いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。
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