その武将は戸次統常(べっき-むねつね)。
今回は統常が背負った悲しい定めとその最期をご紹介します。
■大友家を裏切った父・戸次鎮連
戸次鑑連こと立花道雪/Wikipediaより
統常の前に父である戸次鎮連(べっき-しげつら)をご紹介します。
鎮連は、雷神と呼ばれた伯父・戸次鑑連(立花道雪)を猶父に持つ人物で、秋月氏との間で起きた休松の戦いでの奮戦や天正6年(1578)には土持親成を討ち取り、土持氏滅亡に大きく貢献するといった活躍をしました。
その甲斐もあり、天正14年(1586)には重臣会議に出席できる資格を持った大友家加判衆に名を連ねます。
しかし、この時の大友家は天正6年の耳川の戦いでの敗戦や大友家を支えた猶父・鑑連が天正13年(1585)11月に亡くなったこともあり、衰退の一途を辿っていました。
その状況下で島津家が侵攻してきたこともあり、鎮連は柴田紹安や戸次玄三らと共に島津家に寝返ります。この判断に統常は父の鎮連を諌めますが、聞き入れられませんでした。
その結果、大友義統によって鎮連は謀殺されてしまいました。
■汚名を返上すべく覚悟を決めた母と統常
鎮連の死によって統常は家督を継ぎますが、主家を裏切った一族という汚名がつきまとい続けます。
この汚名を返上すべく天正14年(1586)に鶴賀城が島津軍に包囲された際、援軍に向かうことを自ら志願しました。
その際、統常の母は統常に決死の覚悟をしてもらうために、自身の子どもである統常の幼い弟たちを刺殺。
我が子の背中を見送った統常の母は、その直後に自害しました。
■戸次川の戦いに参加と戦死

仙石秀久/Wikipediaより
出陣した統常は、鶴賀城救援のために派遣された豊臣軍に加わり、島津軍と対峙します。
戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい)と呼ばれたこの戦いで、仙石秀久と長宗我部信親と共に島津軍と戦い、5回ほどの交戦で勝利を収めました。
しかし、次第に不利な状況となり、戸次鎮時や統昌といった一族郎党100人余と共に22歳の若さで討ち取られました。
■戸次家はそれぞれ立花宗茂に仕官する

立花宗茂/Wikipediaより
統常討ち死に後の戸次家は、戦火を逃れた嫡子・延常が家督を継承しますが、早世したことで断絶します。
一方、島津家の人質だった統常の弟・統利は、九州征伐後に開放。親戚の立花宗茂に仕官し、茂照と名を変え筑後柳川藩士となりました。
そして、戸次家はその後も分家や庶家含め柳河藩士として柳川藩を支えていったのでした。
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