昔は衛生環境の劣悪さから、乳幼児の死亡率が高く、7歳まではいつ死んでもおかしくありませんでした。
七五三はその名残り、子供が3・5・7歳まで無事に生きられたことを神様に感謝する儀礼です。
平安時代の人々は、子供が亡くなるとどのように葬っていたのでしょうか。今回は藤原実資(さねすけ)の事例を見ていきましょう。
■血の涙を流す実資
藤原実資。『紫式部日記絵巻』より
時は正暦元年(990年)7月11日、実資の幼い娘が亡くなりました。
この時の悲しみについて、実資は自身の日記『小右記』で悲嘆泣血(ひたんきゅうけつ)したと記しています。
泣血とは文字通り、血の涙を流したということ。よほど可愛がっていたのはもちろん、将来入内させる望みを絶たれてしまったことも大きいのでしょうね。
実資は翌7月12日、陰陽道に詳しい藤原陳泰(のぶやす)に助言を求めました。
「七歳以下の幼児について、手厚く葬るのはよくありません。遺体に粗末な穀織(こくおり)の衣を着せてから、手作布(たづくりぬの)の袋に入れてください。そして桶に納めて遠くへ安置してくるのです」
なぜ七歳以下の幼児を手厚く葬ってはいけないのでしょうか。
その理由は諸説ありますが、手厚く葬って成仏してしまうと、もう生まれ変わる必要がなくなってしまうからかも知れません。
子供はたくさん亡くなるけれど、またたくさん生まれ変わって来ることを願って、あえて薄葬としたのでしょうか。
そして一夜が明けた7月13日。実資は雑人らに命じて、娘の遺体を納めた桶を運ばせました。運んだ先は平山、つまり今八坂の東方となります。
ここに遺体を安置させたのですが、実資は置いてこさせた娘の亡骸が心配すぎて、いても立ってもいられません。
そこで翌7月14日、実資は雑人らに娘の遺体を確認してくるように命じました。
見に行ったからと言って、別に何がどうなる訳でもありませんが……。
■遺体はどこへ消えた?

棄てられた死体たち。『餓鬼草子』より
果たして戻ってきた雑人らは、よせばいいのに「ご遺体は既にありませんでした」とバカ正直に報告します。
娘の遺体は野犬やカラスの餌になったか、それとも生薬の材料(鮮度のよいものは高く売れる)として持ち去られたか……。
どのみちロクな扱いを受けていないのは間違いないでしょう。
にしても、実資の雑人たちは嘘も方便という言葉を知らないのでしょうか。どうせ実資自身が見に行くなんてことはないのだし……。
まぁそこは謹厳実直な主人に仕えているから、やはり性格も似るのでしょうか。
それに気を利かせ?て「遺体は昨日置いたまま、その場にありました」と報告したところで、実資の悲しみが癒えるとも思えません。
だからそもそも何を期待して見に行かせたのか、というツッコミが脳裏をかすめるものの、それは愛娘を喪った父親が悲しみ余って不合理な行動をとってしまったのでしょう。
■再び女児を授かるが……。

再び授かった女児。しかし……(イメージ)
しかしいつまでも悲しんではいられません。実資は次なる娘を授かるよう、さっそく行動を起こしました。
8月に入ると延暦寺や長谷寺へ僧侶を派遣して祈祷させ、9月には自ら女児誕生祈願の物詣に出立します。
石清水八幡宮・石山寺・大安寺・元興寺(がんごうじ)・春日社・長谷寺・清水寺を歴訪。
その甲斐あってか、正暦4年(993年)2月、ついに念願の女児が生まれたのです。
が、その女児も間もなく世を去ってしまいました。
実資は陰陽師の助言に従い、今度は遺体を上品蓮台寺(北山の紫野)の南に安置させます。
その後しばらく女児は生まれず、やがて藤原千古(ちふる)が生まれたのは寛弘8年(1011年)ごろ。
この時点で実資は55歳。歳をとってからの子は特に可愛いと言うように、実資は千古を「かぐや姫」と呼んで溺愛しました。
結局入内は叶いませんでしたが、幸せそうで何よりですね。
■終わりに
今回は藤原実資の女児が亡くなったエピソードから、平安時代の子供に対する葬儀を紹介してきました。
やんごとなき公卿(上級貴族)でさえこの薄葬ですから、庶民の子供が亡くなった時はゴミのように扱われたことでしょう。
実際「汚穢(おわい。汚くケガれたもの)」として処理された記録もあります。
※疫病などが蔓延すれば、一家全滅してしまうことも珍しくなかったので……。
もし生まれ変わりがあるとするなら、来世ではきっと幸せに成長して欲しいものです。
※参考文献:
- 倉本一宏『平安京の下級官人』講談社現代新書、2022年1月
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan