日本史上「軍師(参謀)」として活躍した人物はさほど多くない。戦国時代に活躍した武将「竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)」は軍師としても知られる人物だ。
半兵衛には様々な逸話が後世に伝わっている。





今回は竹中半兵衛重治という人物を考察しながら、彼に関連する逸話を紹介したい。





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【生涯】出生から立身





竹中氏の起源ははっきりしないが、一説には桓武平氏鎌倉氏の一族であるといわれる。
半兵衛は1544年に美濃国を治めていた斉藤氏の家臣・竹中重元の子として生まれた。





美濃国が斎藤道三と義龍親子の確執によって内乱を起こすと父に従い従軍。道三が命を落とした「長良川の戦い」が初陣であった。





1560年。家督を継いで父が築城した菩提山城(ぼだいさんじょう)の城主となる。





まるで婦人のような優男! 織田信長が惚れ込んだ戦国時代の天才軍師「竹中重治」の逸話【前編】
美濃国に侵攻した「織田信長」Wikipediaより



【生涯】美濃国家臣時代





1561年。急死した義龍の子・龍興(たつおき)が斉藤家の家督を継ぐと仕えた。この頃の美濃国は、義龍時代から関係が崩れていた尾張国の織田信長との争いが続いており、龍興が当主になってからも一進一退の状況であった。






1563年。信長は美濃に出陣。寡兵で立ち向かった龍興軍は半兵衛の機転によって勝利を収める(新加納の戦い)。家臣団は若き当主を助けたが、龍興は生来酒癖が悪く徐々に政務に支障をきたすようになり国内は混乱した。





1564年。特定の側近だけを重用し、惰政を極める龍興に業を煮やした半兵衛以下重臣の一部は龍興の居城である稲葉山城を襲撃。当主龍興を追い出す強行にでる。稲葉山城は半年ほどの占有の後に龍興勢によって奪還されたという。





その後の斉藤家は信長の侵攻によって没落。半兵衛は斉藤家を去り23歳で隠遁した。











【生涯】信長の誘いで秀吉の元へ





まるで婦人のような優男! 織田信長が惚れ込んだ戦国時代の天才軍師「竹中重治」の逸話【前編】
竹中重治像(禅幢寺所蔵)Wikipediaより



信長は美濃国侵攻の際に手を焼いた半兵衛に一目置いていた。部下の木下秀吉(豊臣秀吉)に命じて家臣に勧誘したという。






半兵衛は断るが、結果的に秀吉の家臣として仕えることを了承している。斉藤家家臣として信長と戦った過去が仕官を躊躇させたのかもしれない。





信長の元で立身出世してゆく秀吉を支えた半兵衛は姉川の戦いや長篠の戦い、中国攻めなどで活躍した。1579年に病で早世。享年36。





【逸話1】新加納の戦い





まるで婦人のような優男! 織田信長が惚れ込んだ戦国時代の天才軍師「竹中重治」の逸話【前編】
美濃斉藤家3代目当主「斉藤龍興」Wikipediaより



1563年。信長は自身が出陣する形で美濃攻めを開始。柴田勝家や池田恒興といった家臣を従え約6000の兵力で侵攻した織田軍に対し、斉藤軍は約3500と、兵力では圧倒的に不利な状況で迎え撃った。





木曽川を渡った新加納の地で合戦となった両軍。戦力的に圧倒的有利なはずの織田軍は、半兵衛が仕掛けた策によって思わぬ苦戦を強いられる。結果的に織田軍は想定外の犠牲によって退却。斉藤軍は防衛戦に勝利した。






この時、半兵衛が用いた作戦は「伏兵策」だったとされている。伏兵策とは奇襲の一種であり、敵が予期できない場所や時期、方法を用いて組織的な攻撃を仕掛ける戦術だ。





織田軍を退けた斉藤軍であったが、当主・龍興の半兵衛に対する評価は低かったという。このことが以後の乗っ取り事件に繋がっていく。





次回の【後編】ではさらに半兵衛の逸話、秀吉の家臣となった後の逸話に迫りたい。





【後編】の記事はこちら↓

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