春宮(とうぐう。皇太子)には敦康親王(あつやす。藤原定子が生んだ一条天皇の第一皇子)がつくはずでしたが、藤原道長の圧力により退けられてしまいます。
代わりに春宮となったのは敦成親王(あつひら。藤原彰子が生んだ一条天皇の第二皇子)。自分の血を引く天皇陛下を一刻も早く即位させたい道長は、あの手この手で圧力をかけ、三条天皇に譲位を迫りました。
挙げ句の果てには陰湿な嫌がらせまで行う始末。一体どんな嫌がらせに及んだのか、見ていきたいと思います。
■内裏に落ちていた生首
落ちていた生首(イメージ)
時は長和4年(1015年)7月、内裏の紫宸殿(ししんでん)に、人の首が落ちていました。
発見したのは天皇陛下に仕える蔵人(くろうど)の一人。見ると首は半壊し、その傷口は白くなっています。
つまり死後しばらく経ってからここに転がされたのでしょう。
これが誰の首かは分かりません。おおかた下民がくたばり、野犬がくわえてきたものと思われます。
蔵人は首の発見を藤原実資に報告しました。
「先例によれば、死後相当の時間が経過した死体は穢(ケガレ)とはしないことになっているから、今回は触穢(しょくえ)とはならないだろう」
実資はそう思って道長に報告。道長は首を調査させ、翌日に結果を出します。
「首を調べたところ、中の方がまだ赤かった。つまりこれは死後間もない新鮮な首と言える。よって今回は触穢と判断すべきである」
中の方が赤かった、ということは、首の傷口を更に深くえぐらせたのでしょう。まったく大した執念です。
何としてでも触穢にしたかった道長の意図は、もちろん三条天皇への嫌がらせでした。
というのも三条天皇は眼病を患っており、平癒祈願のために伊勢の神宮へ奉幣使(ほうへいし)の派遣を予定していたのです。
触穢があれば神事は延期せざるを得ないため、奉幣使の派遣も当然延期されました。
またこうした怪異は君主の治世に対する天の戒めとも解釈され、三条天皇への遠回しなメッセージ(早く譲位せよとの批判)でもあります。
要するに、首を転がしておいたのは道長の差し金でした。
■相次ぐ「怪異」に、三条天皇もうんざり

道長の嫌がらせに、三条天皇もうんざり(画像:Wikipedia)
それからというもの、似たような怪異が相次いだといいます。
8月には皇太后・藤原彰子の在所(土御門第)で子供の死体が発見されました。
死体は犬が運んできたもので、腕と足が一本ずつ食いちぎられていたそうです。これにより、三十日の触穢となります。
また9月には同じく彰子の在所に人の足が一本転がっており、こちらは五体不具穢(ごたいふぐえ。完全体による死穢より若干軽い)と判定され、七日の物忌となりました。
とまぁこんな具合に、転がる転がる人の死体やら一部やら。もちろん道長の嫌がらせに違いありません。
(あえて自分の身近に転がすのは、アリバイのためでしょうか)
やがて年が明けて長和5年(1016年)1月29日、ついに三条天皇は敦成親王に譲位したのでした。
となるや否や、それが天意とばかりに怪異はピタッと止んだそうです。
まぁ、道長に本気で嫌がらせをするような生命知らず、あるいはなりふり構わぬ恥知らずはいなかったのでしょう。
かくして道長は天皇陛下の外戚として、権力の座を不動のものとするのでした。
■終わりに
今回は三条天皇に譲位を迫り続けた道長の嫌がらせエピソードを紹介してきました。
果たして大河ドラマ「光る君へ」では、この場面が描かれるのでしょうか。今後も道長の野望に注目です!
※参考文献:
- 倉本一宏『平安京の下級官人』講談社現代新書、2022年1月
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan