……敦康親王(片岡千之助。一条天皇第一皇子)と、敦明王(阿佐辰美。居貞親王第一王子)さえいなければ。
その敦康親王の後見であり道長の政敵であった藤原伊周(三浦翔平)は怨みを呑んで世を去り、20年以上にわたって帝位にあった一条天皇(塩野瑛久)もそろそろ退場の予感です。
春宮(とうぐう。皇太子)である居貞親王(木村達成。のち三条天皇)の即位はいよいよ目前に迫り、果たして次の春宮は誰になるのでしょうか。
大河ドラマ「光る君へ」公式サイトより
一方まひろ(藤式部。吉高由里子)は父の藤原為時(岸谷五朗)に不倫が露顕し、娘の藤原賢子(南沙良)とは相変わらず険悪な関係。そんな中で弟の藤原惟規(高杉真宙)が遠く越後で急逝し……という目まぐるしい展開でした。
大河ドラマ「光る君へ」第39回放送「とだえぬ絆」、今週も気になるトピックを振り返っていきましょう!
■第39回放送「とだえぬ絆」略年表

史実だから仕方ないけど、もっと惟規の活躍を観たかった(イメージ)
寛弘6年(1009年)まひろ40歳/道長44歳
- 11月25日 藤原彰子が第二子・敦良親王を出産。
- 11月27日 中宮職による敦良親王の御産養。
同日 道長が公卿らを招待。藤原顕光・藤原公季・藤原伊周のみ不参加。
- 1月2日 一条天皇が出御、管弦の御遊び。
- 1月29日 藤原伊周が37歳で薨去。
- 2月20日 藤原妍子が居貞親王と結婚。
- 時期不詳(中頃) 藤原延子が敦明王と結婚。
- 7月17日 敦康親王が元服。
- 1月5日 藤原惟規が従五位下に叙せられる。
- (日付不詳 藤原賢子が13歳で裳着?)
- 2月1日 藤原為時が越後守に任官。
- 日付不詳 為時に同行した藤原惟規が越後国で卒去。
敦良親王の出産祝いに伊周が来ないのはともかく、藤原顕光(宮川一朗太)・藤原公季(米村拓彰)も来ていないのは気になりますね。
今後悲しい人生を送ることになるメンバーがチラホラ現れて、道長の「闇堕ち」ぶりを引き立ててくれることでしょう。
■居貞親王と結婚した藤原妍子(倉沢杏菜)とはどんな女性?
三条天皇に入内した藤原道長の次女・藤原妍子とはどんな女性だったのか?【光る君へ】

正暦5年(994年)3月生~万寿4年(1027年)9月14日崩御
道長と源倫子(黒木華)の次女・藤原妍子(けんし/きよこ)。居貞親王(のち三条天皇)と結婚した彼女は、劇中でも言及されるように華やかな生活を好み、兄の藤原頼通(渡邊圭祐)からしばしば叱られていたそうです。
しかし肝心の三条天皇は藤原娍子(朝倉あき)を寵愛しており、妍子との夫婦仲は微妙でした。
そりゃそうですよね。一刻も早く自分の孫を皇位につけたくて、しきりに譲位を迫ってくる道長の娘なんて、なかなか愛しむ気にはなれません。
とは言えまったく手をつけない訳にもいかず、二人の間には一人娘の禎子内親王(ていし/さだこ。陽明門院)を授かっています。
この娘は後に敦良親王(後朱雀天皇)の皇后となって尊仁親王(たかひと。後三条天皇)を生み、女系とは言え冷泉系の血脈を後世に受け継ぐのでした。
劇中でも「政治の道具」と自虐していていた妍子ですが、道長によって三条天皇の元へ送り込まれ、政具としての生涯を送ったようです。
■敦明王と結婚した藤原延子(山田愛奈)とはどんな女性?
【光る君へ】藤原道長、許すまじ!夫婦の絆を引き裂かれ絶望の内に世を去った藤原顕光の娘・延子の悲劇

寛和元年(985年)ごろ生~寛仁3年(1019年)4月10日崩御
藤原延子(えんし/のぶこ)は藤原顕光の娘として生まれ、居貞親王と藤原娍子の嫡男・敦明王(阿佐辰美)と結婚します。
やがて三条天皇が後一条天皇(敦成親王)に譲位すると敦明王は親王&春宮となり(それが三条天皇の出した譲位の条件でした)、夫婦仲も円満でした。
しかし三条天皇が崩御すると約束は反故にされ、敦明親王は道長の圧力によって春宮の座を辞退させられてしまいます。
それだけでなく、道長は敦明親王と自分の娘である藤原寛子(かんし/ひろこ。源明子との子)を結婚させました。
これによって延子は棄てられ、失意の内に薨去。父の顕光まで薨去してしまいます。
二十数年にわたり邪魔者であった顕光が消えて、道長も喜んだことでしょうが、話はこれだけでは終わりません。
顕光と延子は悪霊となって道長一族に次々と祟りをなし、ついには寛子を祟り殺してしまうのでした。
祟りを恐れた人々は、顕光を悪霊左府(あくりょうさふ。左府は左大臣の意)と呼ぶようになります。
劇中では源明子(瀧内公美)が入内の望みをかけていた寛子。娘の死に際して、彼女の怒りはどこへ矛先を向けるのでしょうか。
■藤原惟規が遺した和歌
【光る君へ】惟規、ついに退場なのか…?まひろ(藤式部)の弟・藤原惟規の”らしさ”あふれる最期がコチラ

越後国で急逝してしまった惟規。そのエピソードは既にまとめたので、ここでは彼が遺した和歌をいくつか紹介したいと思います。
山がくれ 咲かぬ桜は 思ふらむ【意訳】山奥深くに隠れ、まだ咲いていない桜の木はこう思っているだろう。「私だって、これから咲き誇って春に輝きを添える存在なのだ」と。
我だにをそき 春のひかりと
※『藤原惟規集』(十八)
第1回放送「約束の月」から、惟規はずっとまひろの引き立て役とばかり、才能のなさや不真面目さを強調されてきました。
劇中では姉と道長のお陰だけで五位にまで昇れたように描かれていますが、実際は相当に努力してきたはずです。
そして「自分だって必ず咲き誇ってみせる」と立てた志を、一首の和歌に込めたのでしょう。
逢坂の 関うちこゆる ほどもなく【意訳】逢坂の関所(滋賀県大津市)にも来ていない=都を出たばかりなのに、もう都のみんなと離れるのが寂しいくてならない。
今朝は都の 人ぞこひしき
※『藤原惟規集』補遺(一)※『後拾遺和歌集』別、四六六
※父とともに越後へ参る道中、源為善朝臣へ
そんなにいつもみんなと一緒だったのでしょうか。こんな和歌を詠むあたり、惟規は余程のパリピ気質だったのかも知れませんね。
きっと友達からも「お前がいないと寂しいよ」「早く帰って来いよ」「また遊ぼうぜ」などなど、声をかけられていたのではないでしょうか。
いかに惟規が人気者であったかがよく分かります。
都にも 恋ひしき人の 多かればこちらは劇中でも触れられた通り、最後の一文字は力尽きてしまい、為時が書き足したのでした。
なほこのたびは いかむとぞ思ふ
※『藤原惟規集』補遺(三)
※『後拾遺和歌集』恋三、七六四
※越後で重病を患い、斎院の中将(源為理女)へ
ちなみに劇中では完全にフラれた扱いとなっていましたが、末期の歌を贈るということは、まだ何かしらのつながりがあったのでしょう。
もちろん惟規が一方的な未練を寄せただけという可能性も否定できませんが、それでも彼女に対する強い意志が感じられます。
辞世となってしまったこの歌は、果たして斎院の中将に届いたのでしょうか。届いていて欲しいですね。
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夜這いで危機一髪!”神の斎垣”を越えた紫式部の弟・藤原惟規のエピソード【光る君へ】

■第40回放送「君を置きて」
次週は一条天皇が崩御し、道長が春宮となるべき敦康親王を押し退けます。
春宮に据えるのは、もちろん自分の孫である敦成親王。
そんな中、ただ一人激怒したのが藤原彰子。自分の実子だけでなく敦康親王も大切にしていた彼女は、父と一条天皇に猛抗議します。
次週の第40回放送「君を置きて」楽しみに見守りましょう!
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