■「律令国」という区分

古代律令国家は、日本全土を66国2島に分け、それぞれに国名をつけていました。これを律令国といい、昔の日本の地方行政区分でした。


この区分が使われてきた歴史は長く、飛鳥時代から明治時代初期までの基本的な地理区分の単位でした。

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明治初期の令制国の配置図(Wikipediaより)

言うまでもなく、現在の行政区分の単位は都道府県であり、律令国の単位には現在は行政区分としての機能は備わっていません。

それらの名称も、今は「旧国」「旧国名」として、単なる地理区分のように使われることもあるという程度です。

この令制国が採用され、制度的にも確実に成立したのは、大宝元年(701年)に制定された大宝律令からだとされています。

よって、律令国の成立時期は早ければ大化元年(645年)、遅ければ大宝元年(701年)となります。

また、これらは一挙に成立したのではなく、段階的な制度変化だった可能性も高いとされています。

■筑「前」・筑「後」、「上」野、「下」野の理由

筑前と筑後、上野と下野など…旧国名に「前後」「上下」があるのはなぜなのか?


地下鉄上野駅の看板

そして本稿のテーマですが、このような律令国の国名には、筑前と筑後(福岡県)、豊前と豊後(福岡県と大分県)、あるいは、上野と下野(群馬県と栃木県)のように、「前後」や「上下」のついた名前が多く存在しますね。これはなぜなのでしょう?

実はこれ、都との距離が基準になっていたのです。

当時の役人は、都から放射状に地方へ伸びる官道を基準として、前や後、上や下という単語をつけていました。官道の道順に従い、都に近い方を前・上、遠い方を後・下としていたのです。

もともと、前後・上下に分けられた国々は、それ以前はひとつの政治圏を構成していましたが律令制度の確立に伴って分割されたのです。

たとえば、筑前と筑後は筑紫の国が分割されたものですし、豊前と豊後は豊の国、備前と備中と備後は吉備の国が、そして上野と下野は毛野の国が分割されたものです。


■五畿七道との関係

もう少し詳しく説明すると、この都との距離の基準となった官道は、古く「五畿七道」と呼ばれていた地域ブロックとも大きく関わっています。

まず「五畿」(畿内)は山城・大和・摂津・河内・和泉で、現在の京都府・大阪府・奈良県にまたがる都周辺の特別行政府とされていました。

また「七道」は、東海道・東山道・北陸道・山陽道・山陰道・南海道・西海道のことで、都の中央政府と地方国衙とを結ぶ主要道路でした。

筑前と筑後、上野と下野など…旧国名に「前後」「上下」があるのはなぜなのか?


東海道の難所、さった峠より富士山を望む

そこで、もともとの政治圏を分割する際には官道の道順に従ってブロック圏に分割し、先述の通り、都に近い地域に「前」「上」をつけ、遠い方に「後」「下」をつけたのです。

参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:Wikipedia

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