第39回放送「とだえぬ絆」で非業の最期を迎えた藤原惟規(高杉真宙)。第1回放送「約束の月」から主人公・まひろ(藤原式部。
【光る君へ】惟規、ついに退場なのか…?まひろ(藤式部)の弟・藤原惟規の”らしさ”あふれる最期がコチラ
実はかなり高い教養があった紫式部の弟・藤原惟規。詠んだ和歌に見える彼の才能【光る君へ】

ところで、本作において藤原惟規は藤式部(紫式部)の弟として描かれていますが、実は兄とする説もあるのです(諸説あり)。
今回は南北朝時代から室町時代にかけて編纂された系図集『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』より、藤原惟規が紫式部の兄である説のヒントを紹介していきましょう。
■外祖父の官職が違う理由は?

紫式部(画像:Wikipedia)
それではさっそく『尊卑分脈』を読んでみます。
以下、『尊卑分脈』より
惟規
母 摂津守為信女
(意:母は摂津守である藤原為信の娘)
女子(紫式部)
母 右馬頭藤原為信女
(意:母は右馬頭である藤原為信の娘)
==
※いずれも生年は明記されていません。
※事績に関する記述も今回は割愛しています。
この摂津守(せっつのかみ)である藤原為信と、右馬頭(うまのかみ)である藤原為信は同じ人物です。念のため。
合わせて惟規の母である為信女と、紫式部の母である藤原為信女も同一人物です。こちらも念のため。
※もちろん為信は娘のうち二人を藤原為時と結婚させた可能性も、理論上は考えられますが……今回は考えません。
果たして藤原為信女(ためのぶの娘。役名ちやは)は、惟規と紫式部のどちらを先に生んだのか……この謎を解くヒントが、外祖父である為信の官職にあります。
■藤原為信は摂津守→右馬頭の順で出世?

藤原為信(イメージ)
摂津守とは、摂津国を治める国司の長官(かみ)です。
摂津は上国(じょうこく)なので、その長官である守(かみ)は、従五位下(じゅごいのげ)の位階に相当します。
※この官職と位階の関係は、歴史を語る便宜的に官位相当制などと呼びますが、当時の人々がそう名づけた訳ではありません。念のため。
一方で右馬頭とは朝廷で馬の管理などを行う左右馬寮(さめのりょう/うめのりょう)の内、右馬寮の長官(かみ)に当たります。
こちらの官職は従五位上(じゅごいのじょう)に相当。先の従五位下よりワンランク上位です。
つまり、順当に考えれば以下の仮説が成り立つでしょう。
また必ずしも官位相当どおりに官職が与えられるという訳でもないでしょう。
とは言え、そのように出世していったと考えるのが自然ですから、外祖父の官職が低い≒早い時期に誕生した惟規が年長つまり紫式部の兄であると考えることに違和感はありません。
為信が摂津守、右馬頭を歴任していた時期が分かればいいのですが、それは今後の研究がまたれます。
■終わりに
今回は『尊卑分脈』の記述から、藤原惟規が紫式部の弟ではなく兄であるという説を紹介してきました。
そもそも『尊卑分脈』自体が南北朝時代から室町時代にかけて編纂されており、信憑性の高い史料とは言いにくいものの、まったくの空想という訳でもないでしょう。
果たして藤原惟規は紫式部の兄だったのか、弟だったのかについて、今後の解明を楽しみにしています。
トップ画像:大河ドラマ「光る君へ」公式サイトより
※参考文献:
- 藤原公定 撰『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集 第5巻』国立国会図書館デジタルコレクション
- 『歴史探訪に便利な日本史小典 6訂版』日正社、2010年2月
- 角田文衞『紫式部伝: その生涯と『源氏物語』』法藏館、2007年1月
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