この記事では、吉原にあった「お歯黒どぶ」の役割や構造とともに、名前の由来についても紹介、性風俗の歴史に迫ります。
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「お歯黒どぶ」とは
「お歯黒どぶ」は、約2.8万坪の「新吉原」をぐるりと囲むように造られた溝のことです。
「新吉原(以下:吉原)」とは、明暦3年に3日間かけて江戸の大半を焼きつくした「明暦の大火」のあと浅草の千束に移転した吉原のことで、日本橋にあった吉原は「元吉原」と言います。

吉原へ行く道は、日本堤から「大門」へと続く「十五間道」を通るしかなく、吉原の出入口は、「大門」と呼ばれる扉のない正門のみでした。
とはいえ、女性が大門をくぐって外に出るためには、「切手」とよばれる通行手形のようなものを提示する必要があったのです。
非常用にかけられた9か所の「はね橋」も、普段は上げられていたため通行は不可。
吉原の周囲を囲む「お歯黒どぶ」は、このように遊女たちの逃亡を防ぐ目的で造られました。
実際には、無銭飲食した客を逃さないという役目も果たしていたようです。
「お歯黒どぶ」名前の由来や構造

吉原を囲む大どぶは、遊女たちが使ったお歯黒を捨てたことから「お歯黒どぶ」と呼ばれるようになったそうです。
創業時に約9メートルあった幅は、江戸時代末期から明治初期にかけて3.6メートルになり、明治の終わりごろには約90センチにまで縮小しています。
吉原の外周に位置する場所にあった、現在の東京都台東区にある「吉原公園」から一段低い、高低差のある部分に「お歯黒どぶ」が流れていたようです。
遊女たちの逃亡や恋路を阻んだ「お歯黒どぶ」
遊女たちの多くは、幼い頃に売られてきたこともあり、自分たちの意思で男性客に性的なサービスをおこなっていたわけではありませんでした。
そのため、吉原での暮らしが嫌になって逃亡しようとする者もいれば、馴染みの客と恋に落ちて逃走を図った遊女も多かったようです。
しかし、周到な作戦や準備をして逃亡を図ったものの、その多くが失敗。
その理由のひとつとして、遊女がひとりで逃亡するには無理があり、男性の手助けが必要となるため、楼主たちは馴染みの客に目星をつけて監視したことが挙げられます。
「お歯黒どぶ」からみる性風俗の歴史

江戸時代には、「お歯黒どぶ」を造って遊女たちを閉じ込め、精神的にも肉体的にも自由を奪って働かせていました。
現代では、自ら進んで性風俗やアダルト動画に出演する女性も少なからずいるものの、やはり経済的な事情で性風俗で働く女性が大半を占めます。
「お歯黒どぶ」に阻まれることはなくとも、現代の性風俗での恋愛話にも切ないものが多いことは否めません。
異性とカラダを合せるとき、悲しくて涙を流す女性がいなくなるような、そんな世の中になるといいですね。
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