一条天皇の第一皇子でありながら、藤原道長の野望により皇位継承の前途を絶たれてしまった敦康親王。

風流典雅に生きながら、失意のうちに薨去した敦康親王には一人娘がいました。


今回は敦康親王の一人娘・嫄子女王(げんし/もとこ)がどんな女性で、どんな生涯をたどったのかを紹介したいと思います。

■後朱雀天皇に入内するが……。

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後朱雀天皇(画像:Wikipedia)

嫄子女王は長和5年(1016年)7月19日、具平親王女(ともひら娘)との間に誕生しました。

父方の祖父は一条天皇、母方の祖父は村上天皇という豪華な血統ですね。

母方の叔母である隆姫女王(たかひめ)の伝手により、当時は娘がいなかった藤原頼通(隆姫女王夫)の養女となりました。

これにより藤原嫄子とも呼ばれます(臣籍降下したので源嫄子とも言えますが、そう呼ばれた記録はないようです)。

寛仁2年(1018年)12月17日に実父の敦康親王が薨去。3歳という幼さで嫄子は父と死に別れてしまいました。

頼通夫婦の元で成長した嫄子は22歳となった長元10年(1037年)1月7日に後朱雀天皇(敦良親王)へ入内します。

後朱雀天皇は一条天皇の第三皇子(敦康親王の異母弟)なので、義理の叔父と結婚したのですね。

果たして入内した嫄子は女御の宣旨を受け、正四位下に叙されます。そして同年3月1日に中宮となりました。


この時、先に入内していた中宮・禎子内親王(ていし/さだこ。三条天皇女)は皇后に祀り上げられ、次第に冷遇されていきます。

※皇后の方が中宮より身分は高いものの、名誉職的な存在だったため、実質的な扱いはよくなかったようです。

嫄子も手放しでは喜べず、禎子内親王ともども実に微妙な気分だったことでしょう。



■皇女二人を生むが……。

皇女二人を生むが…藤原道長の野望で皇位継承の前途を絶たれた敦康親王の一人娘・嫄子女王の生涯【光る君へ】


出産から間もなく崩御(イメージ)

とは言っても嫄子は後朱雀天皇の寵愛を受け、祐子内親王(ゆうし/すけこ)・禖子内親王(ばいし/みわこ)の二皇女を生みます。

しかし禖子内親王を生んでからわずか9日後の長暦3年(1039年)8月28日、嫄子は産褥のため崩御してしまいました。享年24歳。

『太神宮諸雑事記』の伝えるところでは、嫄子が沐浴しているとにわかに雷雨が起こり、御湯殿の中で頓滅(とんめつ。急死)してしまったと言います。

これは皇族の血を引く源氏でありながら、藤原氏の女性として中宮に立てられたことが神の怒りに触れたのでは?と噂されました。

神とは藤原氏の氏神である春日明神(かすがみょうじん)。
具体的には武甕槌命(タケミカヅチ)・経津主命(フツヌシ)・天児屋根命(アメノコヤネ)・比売神(ヒメガミ)の四柱を総称した存在です。

それはともかく、嫄子にしてみれば望んで養女になった訳でもないのにいい迷惑としか言いようがありませんね。

■終わりに

今回は敦康親王の一人娘・嫄子女王(藤原嫄子)について、その生涯をたどってきました。

わずか2年あまりの結婚生活が、嫄子にとって幸せであったことを願うばかりです。

NHK大河ドラマ「光る君へ」ではほとんど少女としてしか登場しないと思われます(道長が亡くなるため)。

もし嫄子女王が登場するなら、誰がキャスティングされて、どんな活躍を見せてくれるのか、楽しみにしておきましょう!

※参考文献:

  • 坂本賞三『藤原頼通の時代 摂関政治から院政へ』平凡社、1991年5月
  • 藤井譲治ら『天皇皇族実録30 後朱雀天皇実録』ゆまに書房、2007年12月

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