「光る君へ」で片岡千之さん演じる敦康親王(「光る君へ」公式サイトより)
人々からは同情を集め、本人も風流と典雅に余生を送りますが、皇位継承の希望を絶たれた無念は察するに余りあるものです。
そんな敦康親王には、嫄子女王(げんし/もとこ)という一人娘がいました。
今回は彼女がつないだ敦康親王の血脈と子孫を紹介したいと思います。
■敦康親王の娘・嫄子女王(藤原嫄子)
皇女二人を生むが…藤原道長の野望で皇位継承の前途を絶たれた敦康親王の一人娘・嫄子女王の生涯【光る君へ】


長和5年(1016年)7月19日生~長暦3年(1039年)8月28日崩御(享年24歳)
母親は具平親王女(ともひら娘)。幼くして敦康親王と死に別れ、叔母(母の妹)である隆姫女王(たかひめ)の伝手により、藤原頼通の養女にされます。
後に後朱雀天皇(敦良親王)へ入内。先に入内していた中宮の禎子内親王(ていし/さだこ。三条天皇女)を皇后の座へ追いやり、自分が中宮となりました。
※もちろん三条天皇系の勢力を一掃したい頼通の思惑によるものです。
気まずい中でも後朱雀天皇とは夫婦円満で、皇女二人を出産しました。
しかし産褥によって崩御。一説には
「皇族でありながら藤原氏の娘として入内したことが、藤原氏の氏神である春日明神の怒りを買った」
と噂されたとか。自分で望んだ訳じゃなし、もしそれが事実なら理不尽過ぎます!
■敦康親王の孫娘1・祐子内親王

祐子内親王(ゆうし/すけこ) 長暦2年(1038年)4月21日生~長治2年(1105年)11月7日薨去(68歳)
後朱雀天皇と嫄子女王の間に誕生した二皇女の姉。
頼通の邸宅である高倉第(たかくらだい)にちなみ、高倉一宮とか高倉殿宮などと呼ばれたそうです。
長久元年(1040年)に准三宮(じゅさんぐう。皇后・皇太后・太皇太后に准ずる待遇)となりました。
生涯を独身で過ごしましたが、頼通の孫である藤原師通(もろみち。師実の子)を養子としています。
また文学方面に造詣が深く、祐子内親王のサロンではしばしば歌合(うたあわせ)が催されました。
女流歌人の祐子内親王家紀伊(~きい。出自は諸説あり)や菅原孝標女(たかすえ娘。『更級日記』作者)なども女房として仕えています。
延久4年(1072年)に35歳で出家し、承保元年(1074年)には白河天皇から二品(にほん。二位に相当)を与えられるも辞退しました。
もはや俗世を離れ、位階など無用と思ったのでしょうか。そして長治2年(1105年)11月7日に68歳で薨去します。
■敦康親王の孫娘2・禖子内親王

禖子内親王(ばいし/みわこ) 長暦3年(1039年)8月19日~嘉保3年(1096年)9月13日薨去(58歳)
後朱雀天皇と嫄子女王の間に誕生した二皇女の妹。生後10日目にして母を喪い、養祖父の藤原頼通に養育されたと考えられます。
寛徳3年(1046年)3月24日、異母兄の後冷泉天皇(親仁親王)の即位に伴い、8歳で賀茂斎院に卜定(占いで抜擢)されました。
賀茂斎院(かものさいいん)とは賀茂神社(上賀茂神社と下鴨神社)に奉仕する未婚の皇女で、伊勢の斎宮(さいくう/いつきのみや)と合わせて斎王(さいおう)と呼ばれます。
※賀茂斎院と伊勢斎宮では、京都からほど近い賀茂斎院の方が人気だったとか。
しかし元から病弱だった禖子内親王は20歳となった康平元年(1058年)4月3日に賀茂斎院を退任。長く闘病生活が続きました。
生涯を独身で貫き、姉と異なり養子などもとっていません。
それでも健気に生きた禖子内親王は、姉と同じく幼少期から和歌に秀でており、生涯で25回以上もの歌合を開催したそうです。
やがて晩年になると出家し、嘉保3年(1096年)9月13日に58歳で薨去したのでした。
■終わりに
【敦康親王の略系図】今回は敦康親王の子孫というテーマで、三人の女性たちを紹介しました。
……円融天皇―一条天皇―敦康親王―藤原嫄子(嫄子女王)―祐子内親王=藤原師通(頼通の孫)……
祐子内親王と禖子内親王は子供を生んでおらず、敦康親王の血統は2代先までで絶えてしまいます。
それでも祐子内親王が藤原師通(道長の曾孫)を養子としており、名分上は敦康親王の子孫と言えるでしょう。
この中でNHK大河ドラマ「光る君へ」に登場チャンスがあるのは辛うじて嫄子女王くらいですが、果たして登場するのか気になりますね。
※参考文献:
- 坂本賞三『藤原頼通の時代 摂関政治から院政へ』平凡社、1991年5月
- 藤井譲治ら『天皇皇族実録30 後朱雀天皇実録』ゆまに書房、2007年12月
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