大河ドラマ「光る君へ」での三条天皇と藤原娍子 (「光る君へ」公式サイトより)
今回はその一人、三条天皇の皇女である禔子内親王(ていし/ただこ)を紹介します。
果たして彼女はどんな女性で、どんな生涯をたどったのでしょうか。
■藤原頼通と破談に

藤原頼通(イメージ)
禔子内親王は長保5年(1003年)、三条天皇(居貞親王)と藤原娍子の次女として誕生しました。
同母兄姉弟に敦明親王(あつあきら。小一条院)、敦儀親王(あつよし)、敦平親王(あつひら)、当子内親王(とうし/まさこ)、師明親王(もろあきら。性信入道親王)がいます。
寛弘8年(1011年)に父が皇位を継承したことにより、10月22日付で内親王宣下を受けました。
長和2年(1013年)に姉の当子が斎宮として伊勢に下向したこともあり、禔子内親王は父からたいそう可愛がられたそうです。
そんな禔子内親王に最初の縁談が持ち上がったのは、13歳となった長和4年(1015年)。三条天皇が藤原頼通(道長嫡男)に降嫁させる内意を示しました。
天皇陛下から積極的に皇女の降嫁を持ちかけた前例はなく、道長との関係改善を図るための政略結婚です。
皇室とのつながりを強化する縁談に道長は乗り気でしたが、頼通は正室の隆姫女王(たかひめ)を傷つけまいと気乗りしない様子でした。
「男はよい妻を娶ってナンボ。
道長に叱咤される頼通でしたが、具平親王(ともひら。隆姫女王父)の亡霊が夢枕に立ち、娘を見捨てぬよう涙ながらに訴えます。
そのせいか頼通は重病を患ってしまい、結局は破談となってしまいました。禔子内親王は何も悪くないのに、何だか可哀想ですね。
■弟の藤原教通と結婚

藤原教通と結婚(イメージ)
道長・頼通との関係改善に失敗した三条天皇は長和5年(1016年)1月29日、敦成親王(後一条天皇)へ譲位。とうとう膝を屈してしまいました。禔子内親王も責任を感じてしまったのでしょうか。
しかし、ただで譲位する三条天皇ではありませんでした。
「次の春宮は敦明親王にせよ。それが条件だ」
道長「いいでしょう、承知しました」
しかし寛仁元年(1017年)5月9日に三条天皇が崩御すると、道長は約束を反故にして、敦明親王に春宮の座を辞退させたのでした。
「謀ったな!」
道長「人聞きの悪いことを仰いますな。一度は春宮に奉ったのだから、それ以降どうしようと約束を違えてはおらぬ」
とまぁこんな具合で、禔子内親王の身辺はあれよあれよと没落していきます。
そんな中、禔子内親王は17歳となった寛仁3年(1019年)に裳着(もぎ。女性の成人儀式)を行い、三品(さんぼん。三位相当)に叙されました。
やがて万寿3年(1026年)2月に藤原教通(のりみち。頼通の弟)と結婚。その継室となります。
没落したとは言え、皇族とのつながりは相応に価値があったのでしょうね。
二人の間に子供は生まれませんでしたが、家族としての存在感は確立します。
長暦3年(1039年)に教通の長女・藤原生子(せいし/なりこ)が後朱雀天皇(敦良親王)に入内した際は、継母として教通と共に付き従いました。
その後、長久2年(1041年)に二品(にほん。二位相当)となり、永承3年(1048年)に46歳で薨去します。
■終わりに
今回は三条天皇の皇女で藤原教通の継室となった禔子内親王の生涯をたどってきました。
父帝の苦悩を間近に見ながら、何とか道長一族との媒(なかだち)を務めようとしたことでしょう。
NHK大河ドラマ「光る君へ」に登場するか分かりませんが、彼女の頑張りも知って貰えたらと思います。
※参考文献:
- 角田文衛 監修『平安時代史事典』角川書店、1994年4月
- 『コンサイス日本人名辞典 改訂新版』三省堂、1993年12月
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