武田信玄のライバルと言われた上杉謙信には、もう一人のライバルと言っても差し支えない武将がいました。

その人物は佐野昌綱(さの-まさつな)ですが、初めて聞く方もいるのではないでしょうか。


今回は昌綱についてご紹介し、謙信と長きに渡って続いた戦いも紐解いていきます。

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佐野昌綱/Wikipediaより

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■古河公方から後北条氏に従う

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藤原秀郷/Wikipediaより

享禄2年(1529)、佐野昌綱は佐野泰綱の次男として誕生します。

また、佐野氏は藤原秀郷流足利氏の庶流で、平安末期の武士・足利有綱の子である基綱が下野国(現在の栃木県)安蘇郡佐野庄に土着したことが始まりです。

鎌倉時代では鎌倉幕府の御家人として、室町時代では古河公方に味方して勢力を維持してきました。

昌綱も古河公方に従いますが、天文15年(1546)の河越夜戦の大敗で衰退したことで、勢いのあった北条氏康に従いました。

■一度謙信と共に戦った

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北条氏政/Wikipediaより

しかしながら、昌綱は後北条氏を裏切り上杉謙信に味方したことで永禄3年(1560)2月に居城・唐沢山城が侵攻を受けます。

北条氏政率いる3万の大軍に対し、防衛戦を展開しつつ謙信自らの援軍が来たことで撃退に成功しました。

この時、謙信は唐沢山城を早急に救援すべく、鎧を着用せずに愛用の十文字槍を携え、少数の兵を率いて敵中に突撃。謙信の様子を見た後北条勢が、何かの策略かと疑ったことで無傷で入城したことを見て、夜叉羅刹とは謙信のことだと恐れたそうです。

この戦いは、昌綱と謙信が手を組んで戦った唯一の戦いであり、謙信の武勇を示すエピソードが残っておりますが、創作の可能性が指摘されています。

■謙信との戦いで天下に武勇を知らしめる

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上杉謙信/Wikipediaより

翌年の永禄4年(1561)には謙信に従って小田原城を包囲しました。

しかし、第四次川中島の戦いが控えていたことで謙信は攻略できずに撤退。
これを好機と見た氏康による唐沢山城侵攻で、援軍もなく孤立した昌綱は降伏します。

これを反逆と見た謙信は唐沢山城へ向けて軍を進めます。しかし、唐沢山城の防御の高さと冬の到来によって兵を引き上げました。

永禄5年(1562)にも謙信は侵攻しましたが、攻略できずに兵を引き上げます。

謙信の侵攻を2度も防いだことで、昌綱は名と武勇を天下に知らしめることになりました。しかし、永禄6年(1563)に謙信が行った関東出兵により降伏し、同時に唐沢山城を開城しました。

■謙信の攻撃から徹底的に抵抗した昌綱

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北条氏康/Wikipediaより

このまま謙信の元にいることを良しとしなかった昌綱は、永禄7年(1564)2月に謙信が下野を去ったタイミングを見計らって反旗を翻します。

これに対して謙信も唐沢山城を攻め、何度も行われた唐沢山城を巡る戦いの中で最大の激戦が勃発しました。

謙信の激しい攻めに対して昌綱は徹底抗戦しますが、後北条氏の援軍もないまま戦うのは分が悪く、次第に劣勢になっていきます。

そして、佐竹義昭と宇都宮広綱の説得により降伏。幸いにも2人の助命嘆願により命を取られずに済みました。

しかし、同年10月に第五次川中島の戦いが起こった隙をついて、氏康が唐沢山城に侵攻すると、またも謙信から離反します。


この裏切りによって再度謙信の侵攻を受け、昌綱は人質を差し出して降伏しました。

■唐沢山城の戦い終結

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上杉謙信/Wikipediaより

人質がいることもあり、ここからしばらくは謙信の元にいました。

そんな折、永禄9年(1566)の臼井城の戦いで謙信が敗北し、後北条氏の勢いが増したことで、昌綱はまたまた後北条氏の元に行きます。

そんな昌綱を見た謙信は、永禄10年(1567)2月に唐沢山城を攻めますが、積雪だったこともあり、再攻撃のために雪解けを待ちました。

そして同年3月、雪解けを待った謙信に唐沢山城を攻められ、昌綱は再び降伏します。

それでも元亀元年(1570)に離反。謙信も昌綱に対抗して軍を向けますが攻略できず、唐沢山城を巡る戦いはこれを最後に収束しました。

■互いを認め合った昌綱と謙信

昌綱と謙信は、永禄4年(1561)から元亀元年(1570)までの約10年間で8回に及ぶ戦いを繰り広げました。

それでも落城しなかった唐沢山城を、なぜ謙信は執拗なまでに攻め続けたのかと言うと、関東へ進軍するための重要な拠点として見ていたからです。

しかしながら、唐沢山城自体難攻不落な上に、幼年より人並外れた知恵を持ちつつ軍略に秀でた昌綱がいたため、翻弄されてしまう結果となりました。

そんな昌綱を何度も助命したことから、謙信は昌綱の才覚を認めていたことがうかがえます。

昌綱も謙信を認めていたようで、謙信より先に天正2年(1574)4月8日に亡くなりましたが、自身のお墓には命日を謙信の一周忌である天正9年(1579)3月13日と刻ませました。


これは、謙信よりも長生きしたという対抗心を示すために遺言で残したといわれています。

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