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2025年大河「べらぼう」に登場!お江戸のダ・ヴィンチ、平賀源内は美少年好きの生粋の男色家だった【前編】
「江戸のダ・ヴィンチ」ともいわれる平賀源内は、当時バイセクシャルな男性が流行っていた江戸の街で、生粋の男色家でした。

「平賀鳩渓肖像」wiki
贔屓にしていた歌舞伎役者の溺死事件をもとに書いたという男色小説や、男娼が客を取るための「陰間茶屋」のガイドブック、絶世の美少年が登場する冒険小説……など、男色家ならではの作品を残しています。
江戸時代の発明家・平賀源内の”下ネタ狂歌”がけしからん!実にけしからん(笑)

■美形の歌舞伎役者に地獄の閻魔大王も夢中に

若く美しい女形「中村富十郎 慶子 市川団十郎 三升」鳥居清広 wiki
平賀源内は、1763年に風来山人(ふうらいさんじん)名義で、男色小説『根南志倶佐(ねなしぐさ)』を発表しています。
贔屓にしていた深い仲の人気女形の歌舞伎役者・荻野八重桐の溺死事件を基に書いた男色小説です。
地獄の閻魔大王が絶世の美少年の瀬川菊之丞という女形の役者絵を見て一目惚れしてしまい、地獄を出て菊之丞に会って枕を共にするんだと血迷ってしまう……という大胆なストーリーです。

成相寺の閻魔像wiki
「肌に触れてみたい」と美形役者に恋焦がれる閻魔大王『根南志倶佐』『根南志倶佐』のあらすじは以下になります。
ある日、獄卒(地獄の番人)が、若い僧侶を閻魔大王の前に引っ立ててきました。
獄卒いわく、「江戸の修行僧で、瀬川菊之丞という女形に惚れ込み、師匠の財産に手を付けるなどの悪事三昧の挙句に捕まり牢に入ったものの、菊之丞ともう会えないことを苦にして現世を去り地獄にやってきた」とのこと。
なんでも、僧侶は愛しい愛しい菊之丞の役者絵を身に付けたまま地獄にやってきたのだとか。

平賀源内が惚れた二代目 瀬川菊之丞wiki
閻魔大王は「男と男が交わるなんてことはありえん!」と怒るのですが、地獄の輪転王が「男色の罪は女色の罪に比べればたいしたことはないといいます。
「いわば、女色は『甘き蜜』、男色は『淡き水』……無味の味は、佳境に入った者しか味わうことができないそうです。その瀬川菊之丞とやらの役者絵をひと目見たいものです」と閻魔大王にせがんだのでした。
「勝手にしろ!」と閻魔大王が目を瞑ったので、輪転王は菊之丞の役者絵を壁に掛けたところ、あまりの美しさに地獄の獄卒たちはどよめき、感嘆の声を上げたそう。
周囲の声があまりにも大絶賛しているため、我慢できず目を開けてしまった閻魔大王。菊之丞の役者絵に見惚れて、高い玉座から転げ落ちてしまいます。
「冥府の王位を捨ててシャバに行き、菊之丞と枕をともにする」と血迷い、ふらふらと地獄から出ていこうとするところを、「けしからん!」と、邪淫の罪を裁く宗帝王に怒鳴りつけられてしまうのでした。

二代目菊之丞が初演したという「鷺娘」鈴木春信画 wiki
そこで「瀬川菊之丞を捕まえて地獄に連れてこよう!」という話になるのですが、地獄の帳面を見てみると菊之丞の命が尽きるのはまだ先。
早く菊之丞を連れてきて「肌に触れてみたい」と恋焦がれる閻魔大王に、人の一生を見届けて善悪を監視する「見る目」が、「菊之丞は、近いうちに役者仲間と連れだって舟遊びに行くので川の中に引き摺り込んで地獄に連れ込みましょう」と、そそのかします。
そこから男色に我を忘れた閻魔大王が、河童を若侍に化けさせ菊之丞に近づくのですが……という奇想天外なストリーが展開。今の時代に読んでも面白い内容で、閻魔大王が美しき菊之丞に惚れ込むあたりは、男色家らしい源内の想いを表しているように感じます。
瀬川菊之丞は実在の役者で、源内とは深い仲にあったそうです。

閻魔大王は「菊之丞を殺し地獄に連れてこい」と河童に命じる。(河童:鳥山石燕)wiki
■若い男娼「陰間」を置く陰間茶屋のガイドブックの著書も
平賀源内は、『根南志倶佐』のほかにも男色にまつわる著書を出しています。
ひとつは『江戸男色細見』。
当時、「陰間(かげま)」と呼ばれる、男性専門に体を売る若い男娼が流行っていたのですが、その陰間を置いているのが陰間茶屋でした。
芝神明門前(現在の港区の芝大神宮)、湯島天神門前、芳町(現在の中央区日本橋人形町のあたり)は、江戸の三大男色地帯と呼ばれ、この陰間茶屋が集まっていました。
平賀源内も足繁く通っていたそうで、『江戸男色細見』は一軒ごとに陰間茶屋を詳しく説明をした、いわゆるガイドブックのようなものでした。

陰間との性交を描いた春画
(鈴木春信 画)wiki
また、風来山人というペンネームで『乱菊穴捜(らんぎくあなさがし)』という滑稽本も出しています。実は狐の化身である絶世の美少年と一緒に過ごす夢のような日々を過ごすというような小説だそうです。
来年の大河ドラマ「べらぼう」の主人公蔦屋重三郎に頼まれて、江戸吉原のガイドブック『細見嗚呼御江戸(さいけんああおえど)』の序文を書いた平賀源内。
源内の男色ぶりを知っている江戸っ子たちは、「男色家なのに吉原で女色も嗜むのか!?」と江戸っ子たちが驚いたのも無理はありません。

遊里付待合、料理屋の風景(歌川国貞)public domain
その後、源内は、安永8年(1779年)、殺傷事件を起こし投獄されて、江戸市中を騒然とさせました。そして伝馬町の牢内で破傷風に病死したといわれています。
しかしながら、事件の動機や死因については不明な部分が多く、実は生き延びて天寿を全うしたなど、さまざまな説があり、常に人を驚かせ続けた天才は最後まで世間を驚かせつつこの世を去っていったのでした。
変わり者の天才を惜しむ友人の言葉
友人として源内の葬儀を執り行った杉田玄白は、故人の過日を偲んで源内の墓の隣に彼を称える碑を建てました。1943年(昭和18年)に国の史跡に指定された碑には、以下のように記されています。
平賀源内 碑銘(杉田玄白 撰文)
「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常 」
(ああ非常の人、非常の事を好み、行ひこれ非常、何ぞ非常に死するや)
(大意)ああ、何と変わった人よ、好みも行いも常識を超えていた。どうして死に様まで非常だったのか
(非常の人云々は、前漢の司馬遷『史記』「列伝」司馬相如列伝からの引用。)
長年の親友、源内の逝去を惜しむ玄白の思いが伝わってくるような言葉です。
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