実資の養子 藤原 資平(ふじわらのすけひら)要するに藤原実資は甥を養子にしたのですね。
篠田 諒(しのだ・りょう)
藤原実資の養子。実資の同母兄である懐平の次男。
※NHK大河ドラマ「光る君へ」公式サイトより。
果たしてこの藤原資平とはどんな人物だったのか、その生涯をたどってみましょう。
「光る君へ」で篠田諒さんが演じる藤原資平(大河ドラマ「光る君へ」公式サイトより)
■反道長派?として三条天皇の御代に出世

三条天皇(画像:Wikipedia)
藤原資平は寛和2年(986年)もしくは寛和3年(987年)、藤原懐平(かねひら。実資同母兄)と源保光女(やすみつ娘)の間に誕生しました。
叔父の実資と養子縁組をした時期は不明。実資は小野宮家の嫡流であったことから、資平は実兄の藤原経通(つねみち)と並び順調に出世していきます。
三条天皇の代になると資平は反道長派?としてますます出世し、長和4年(1015年)には正四位下・蔵人頭に抜擢されました。
天皇陛下の側近である蔵人たちをとりまとめる蔵人頭。しかし喜んでばかりもいられず、その近さゆえに藤原道長から圧力をかけられる場面にも直面していきます。
■三条天皇の譲位後も、80歳過ぎまで活躍

数十年にわたり活躍(イメージ)
やがて長和5年(1016年)に道長の圧力に屈した三条天皇が譲位し、後一条天皇(敦成親王。道長の孫)が即位した際も、資平は引き続き蔵人頭を務めました。
本来ならば前政権の関係者は粛清・冷遇されがちですが、よほど優秀だったのか、あるいは道長派といち早く和解したのかも知れません。
その後も三条天皇派とも関係を保ちながら、治安2年(1022年)には正三位まで昇進しています。
長元2年(1029年)には権中納言となり、後一条天皇・後朱雀天皇(敦良親王。後一条天皇の実弟)・後冷泉天皇(後朱雀天皇皇子)と30年以上にわたり活躍しました。
30数年の間に実資が寛徳3年(1046年)、兄の経通が永承6年(1051年)に世を去り、天喜5年(1057年)には長男の藤原資房(すけふさ)にも先立たれてしまいます。
康平4年(1061年)に権大納言、康平8年(1065年)には大納言まで昇進しました。すでに80歳に手が届こうと言うのに、まだ現役だったことに驚きです。
そして治暦3年(1068年)12月5日に薨去。極位極官は正二位・大納言兼皇太后宮大夫でした。
ここまで長寿を保てたのは、健康オタクだった父の薫陶があったのかも知れません。
■終わりに

藤原実資。菊池容斎『前賢故実』より
今回は実資の養子となった藤原資平について、彼の生涯をたどってきました。
せっかく小野宮流の家督を引き受けたのに、養父の実資は晩年に生まれた妹の藤原千古(ちふる/かずこ)を溺愛するあまり
「我が遺産はほとんど千古に相続する!他の子らは異論をはさむな!(意訳)」
と宣言するなど、資平たちはあまり可愛がられていない印象です。
その千古は藤原兼頼(かねより。藤原頼宗の子で道長の孫)と結婚し、早く亡くなってしまったために荘園など財産の多くを道長一族に持っていかれてしまいました。
これが小野宮流の衰退する一因となるのですが、資平とすれば残念でならなかったことでしょう。
果たしてNHK大河ドラマ「光る君へ」では、篠田諒がどんな演技で魅せてくれるのか、楽しみですね!
※参考文献:
- 阿部猛『摂関政治』教育社、1977年10月
- 山中裕『藤原道長』教育社、1988年11月
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan