土方歳三 肖像写真(Wikipediaより)
さて、お馴染みの副長・土方歳三。彼のちょっとしたエピソードを紹介します。
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■有名な恋の歌は、自分でも…?
歳三といえば趣味は俳句というのはファンの知るところ。特に、
「しれば迷い しらねば迷わぬ 恋の道」
という句は、女性ファンをきゅんとさせる一句。
ちょっと直接的過ぎて恥ずかしい気もするこの句、実はご本人もいまいちと思っていたらしく、歳三の発句をまとめた『豊玉発句集』では、丸で囲んであるそう。俳句の世界では丸で囲むというのは「没にする」という意味があるそうです。
その隣に、
「しれば迷い しらねば迷わぬ 法の道」
という句が書いてあり、一気にお堅い印象に。ちょっと恋の歌を詠んでる場合じゃないぞ、という自分への戒めなのかもしれませんね。
■ここを去れば斬る!しかし後々…
戊辰戦争が勃発し、土方が一軍を率いて宇都宮城を攻略していた時のこと。
明治政府軍に押されて劣勢だったとき、逃げだす味方の前に立ちふさがり「ここから退いた者は斬る!」と抜刀して檄を飛ばしました。
土方歳三を語るうえで有名なエピソードであり、絵になるため、映画やドラマではよく再現される場面だと思います。
味方を斬るなんてたまったものではない…と思いきや、実はこのあと、自分の斬った兵士の墓を建ててあげてほしいとある者にお金を渡したそうです。
歳三を戦死まで見届けた中島登という隊士は「歳を重ねるにつれ温和になり、赤子が母親に懐くように人から慕われていた」と述懐しています。
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■女性にモテモテだった歳三。しかし怒らせてしまった女性とは…?
土方は生涯自分の子供を持つことはありませんでしたが、甥っ子の作助をたいそう可愛がっていたとのこと。実はその妻のたねさんが、歳三のことを生涯快く思わなかったようなのです。
作助のことを記す前に、ざっと土方家のことを説明しますと、兄弟は10人いましたが、4人は生後間もなく死亡しているので、実質は六人兄弟で歳三は末っ子でした。
19歳年上の長兄、為次郎は盲人だったので、当時の制度で家を継げず、次兄の喜六が土方隼人義厳(はやとよしかね)と名乗り土方家を相続します。その息子が作助で、歳三の甥となります。(※土方隼人は、土方家で代々襲名した名前のこと)
この作助、義厳が40歳の若さで病没すると、16歳の若さで家督を継ぎ「隼人」を名乗ることになります。その翌年にたねさんが嫁いできました。
晩年彼女の語ったところによると、長女のテツが生まれたときに歳三から寄越された手紙に、お祝いの言葉ではなく「女は下の下なり」と書かれていたそうです。
しかし歳三の置かれた状況を考えると、政局も安定しない動乱のなか、実家を若くして継いだ甥っ子を心配していたのかもしれません。おたねさんには早く跡継ぎとなる男子を産んで欲しかったのでしょう。
しかし橋本家という親戚に長男が誕生した時は、京都からお祝いの小袖と自作の漢詩も送られてきたということから、よりおたねさんはショックだったようです。きっと当時としては当たり前のことで悪意はないのでしょうが、女性としてはどうしても比較してしまいますね。
いろいろなエピソードが錯綜する幕末の隊士たち。完璧な人間ではないから魅力があるのかもしれません。
参考:子孫の語る土方歳三
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan