江戸時代、大奥には多数の女性が将軍に仕えていました。

今回は第11代将軍・徳川家斉(いえなり)に仕えた大崎(おおさき)を紹介。
果たして彼女はどんな生涯をたどったのでしょうか。

■大崎の生年や出自は不明

第11代将軍・徳川家斉に仕えた大奥 御年寄・大崎(映美くらら...の画像はこちら >>


大奥の様子(イメージ)楊洲周延筆

大崎は生没年不詳、その出自についても詳しいことはよく分かっていません。

大崎という名前は大奥における通称で、もしかすると出自のヒントが隠されている可能性があります。

【大崎の由来仮説】

  • 陸奥国の戦国武将・大崎氏の出身?
  • 大崎氏の由来である下総国香取郡大崎郡の出身?
  • 大と崎は何かの略称?
  • あるいはオオサキは何かの隠語で適当な漢字を当てた?
……などなど。

『徳川諸系譜』によると、大崎はもと一橋家の奥向で仕え、家斉誕生時には助産婦(御誕生御用掛)を務めました。

家斉の誕生が安永2年(1773年)10月5日なので、この時点では出産を補助できるほど手慣れていた≒経産婦or熟練者であると仮定できます。

この時点で25~30歳とした場合、大崎の生年は延享元年(1744年)~寛延2年(1749年)ごろだったのかも知れません。

■大奥で権勢を振るう

第11代将軍・徳川家斉に仕えた大奥 御年寄・大崎(映美くらら)の生涯をたどる【大河ドラマ べらぼう】


大奥で権勢を振るった大崎(イメージ)

一説にはそのまま家斉の乳母を務めたとも言われ、やがて家斉が成長すると江戸城西の丸へ移ります。

安永7年(1778年)ごろには御客会釈(応接係)を務め、天明元年(1781年)に家斉が将軍世子(後継者)となると、本丸大奥の御年寄に昇進しました。

天明7年(1787年)時点で序列第7位の御年寄として存在感を発揮した大崎。大奥を取り仕切る代表格のように評されることが多い大崎ですが、高岳(たかだけ/たかおか) ・滝川(たきがわ)・野村(のむら)には及ばず、筆頭格を務めたことはありません。

しかし同年に老中が田沼意次から松平定信に交代すると、定信と親しかった大崎は上位者をしのぐ権勢を振るいました。


そのため人々は「表は定信、奥は大崎」と噂したそうです。

■失言で定信の逆鱗に触れる

第11代将軍・徳川家斉に仕えた大奥 御年寄・大崎(映美くらら)の生涯をたどる【大河ドラマ べらぼう】


松平定信(画像:Wikipedia)

しかし両者の蜜月は永く続かず、定信と初めて対面した大崎は「御老中と御年寄は御同役ですから、奥向きのことはどうかわたくしにご相談あそばせ(意訳)」と発言。これが定信の逆鱗に触れてしまいました。

恐らく大崎は「両役は表裏一体であるから、盟友として協力しよう」という意図だったのでしょう。

しかし定信は女性と同格扱いされたことが許せません。

「同役とは何事か。大奥にも老中があると申すのか。年寄が老中と同格とは、不届きにも程があろう(意訳)」

この一件以来、大崎と定信は対立。定信は倹約令をタテに、それまで聖域であった大奥の改革にメスを入れます。これに危機感を覚えたのか、大崎は早々に大奥を退きました。

以降、彼女は消息を絶ち、その最期についても伝わっていないそうです。

■終わりに

今回は徳川家斉に仕えた大奥御年寄・大崎について紹介してきました。


思わぬ失言でその地位を失ってしまいましたが、切り替えの早さで定信の大鉈を避けた機転は、中々の切れ者だったことをうかがわせます。

仮に定信と対決姿勢を見せるにしても、自分より格上である高岳・滝川・野村に対する遠慮もあり、存分には対抗出来なかったことでしょう。

もし彼女が大奥の筆頭格だったとしたら、定信と対決したのでしょうか。あるいは膝を屈したのか、それともすべてを投げ出して逃亡したのでしょうか。

大奥を去った大崎のその後も気になりますね。

果たしてNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華之夢噺~」では、大崎の生涯がどのように描かれるのでしょうか。映美くららの好演に期待しましょう!

※参考文献:

  • 榎本秋『徹底図解 大奥―将軍のために用意された秘密の空間』新星出版社、2008年8月
  • 竹内誠『徳川「大奥」事典』東京堂出版、2015年1月
  • 由良弥生『大奥よろず草紙』原書房、2003年2月

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