弥生時代の人々はどのような生活をしていたのでしょうか。……こう書くと、小学生向けの歴史の本でも当たり前に取り上げられそうな、単純なテーマと思われるかも知れません。
しかし、最新の考古学・歴史学の成果はめざましく、弥生人の意外なほどの「文化的生活」ぶりが次々に明らかになっています。しかもその影響は、遠く時を隔てた後世の私たちの生活にもしっかり及んでいるのです。
今回は「食」「住」の二点にスポットを当てて解説しましょう。
■コメから発酵食品まで
まず、弥生人の主食はコメでした。当時の遺跡を発掘すると、狩猟や漁業に関する器具や道具よりも、コメ作りにつかったとみられる農耕具のほうが多数出土します。
日本の稲作文化が初めて証明された登呂遺跡(Wikipediaより)
もちろん、狩猟道具も縄文時代よりは発達していたので、シカやイノシシといった獣類から、鳥類・魚・海草なども食べていたと考えられます。
つまりこの時点で、コメを主食におかずを食べるという日本の食スタイルがすでに確立していたのです。
ただし、弥生人が食べていたコメは白米ではなく、赤米です。
赤米は荒地でもそれなりにできる種類で、弥生人は赤いコメを蒸して食べていました。コメを蒸したものが「飯」と呼ばれるようになるわけですが、当時の遺跡からは蒸し料理に使う道具がたくさん出土しています。
また弥生時代後期になると、狩猟などに出かける際に蒸したコメを手で押しつぶして携帯するようになったようです。すでにおにぎりも登場していたわけです。
また、弥生時代に生まれた日本独特の食材として発酵食品が挙げられます。
日本の夏は温度・湿度ともに高いので、その気象条件を利用して食品を作るようになったのです。
たとえば、デンプン系のものを放っておくと糖化し、やがて発酵してアルコールになりますね。また、生肉に塩をくわえて発酵させれば塩辛になります。

弥生時代の人々が健康的で、発掘された骨からも発育のよさが確認できるのは、発酵食品をよく食べていたことも大きな理由ではないかと考えられています。
■受け継がれた「竪穴式住居」
さて、次は「住」の話です。縄文時代から造られるようになった竪穴式住居は、弥生時代にも受け継がれました。
建て方は縄文時代と大きな変化はなく、地面を円形や方形に掘りくぼめ、その中に複数の柱を建てて、梁や垂木をつなぎ合わせてからフジヅルで結んで骨組みをつくるもの。
柱の材料は栗やカシで、その上からワラやカヤで屋根を葺くというやり方でした。茅葺屋根ですね。

吉野ケ里遺跡の竪穴式住居
フジヅルで結び合わせただけでは強度に不安なところがありますが、イロリで火を燃やすと燻製状態になるため強度が増します。
竪穴式住居の特長は他にもあります。
例えば軒先が地面に近く、耐震・耐風・耐雪性が高いことは大きな特徴です。この形式は火災には弱いものの、当時としては災害に強い建物だったといえるでしょう。
また、夏は涼しく、冬は暖かく、とくに高温多湿の夏場には過ごしやすい造りになっていた。一方、冬場はイロリで火を燃やし、寝るときは動物の毛皮を敷いていたようです。
■後世につながる「間取り」「トイレ」
当時の建物の中は、最初の頃は部屋の仕切りがありませんでしたが、入り口付近がくぼみ、加工用の石を置いてあったと思われる建物も発掘されています。
このことから、入り口近くが作業場で、中央が食事場所、そして、その周辺が寝る場所というように分かれたのではないかとも考えられていています。

横浜市大塚遺跡・歳勝土遺跡歴史公園の住居跡
時代を経ると、しだいに部屋の中を仕切ったり、土を盛った寝台が設けられたりするようになっていきました。
たとえば和歌山県の遺跡からは、住居の隅にそれぞれ離れて四つの土を盛った寝台が確認されています。
ただ、屋内にトイレを設置する知恵・技術まではなかったようで、野外に用便する区域をつくったり、川の上に屋根をかけた場所で用を済ませていたと思われます。
このように、川+屋根の組み合わせで造られた施設が、カワヤ (川家)と呼ばれるようになったわけです。
参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia
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