姉のみつの孫・要をモデルに描かれた肖像画
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新撰組の歴史はモロモロ割愛します。京都から江戸へ敗走した新撰組隊士たち。新政府軍が北上するまえに甲府城を押さえてくれと、勝海舟の入れ知恵で「甲陽鎮撫隊」が結成されて、近藤勇は大久保大和と名を変えて率いることになります。
その甲州戦争に出発する直前には、労咳(ろうがい)が悪化して千駄ヶ谷で療養していた沖田。
高杉晋作や樋口一葉、沖田総司など数多くの歴史上の人物を苦しめた感染症「労咳(ろうがい)」

そこに近藤勇が見舞いに行っています。彼は床についても明るく冗談を飛ばす沖田に接して、「あんなに死に対して悟りきったやつも珍しい」と、驚いていたと言います。
しかし、その近藤の見舞のわずか数日後に出発した「甲陽鎮撫隊」に沖田も参加していました。しかし現在の府中市辺りでやはり無理がたたって脱落。一人、千駄ヶ谷に戻されます。
この、いよいよ最期という時の沖田総司といえば、黒猫の逸話がよく知られています。
”庭に来ていた黒い猫をたびたび斬ろうとするものの、体力の衰えから斬れなかった”
という、哀しみを誘う逸話ですね。
しかし、仮に腕試しをするにしても、動物を殺す必要はあったのでしょうか?
自分の体力の衰えをはかりたいのならば、その辺の木々を打ち払ったり、木刀での打ち込みでも良さそうではありませんか。
それほど黒猫が憎たらしかったのでしょうか?
実はたまたまではなかった可能性があります。
日本ではもともと黒猫は“縁起の良い猫”と考えられていました。

黒猫
「夜でも目が見える」という理由から、黒猫は魔除けや幸運、商売繁盛の象徴とされてきて、黒い招き猫も作られます。
江戸時代には「黒猫を飼うと結核が治る」とうわさが広がり「黒猫を抱いているときに自分の背中にお灸をすえると治る」という迷信があったというのです。
川柳でも「よごれめの分からぬ猫を抱いてすえ」という句が残っています。
なので、その迷信にあやかろうと、誰かが黒猫を庭に連れてきたという可能性もあるのです。しかし猫は気まぐれ、なかなか捕まえられず抱く機会がない。そんな猫に業を煮やし、沖田は斬りかかったのかもしれません。
いずれ立つこともできなくなった沖田は、看病しているお婆さんに毎日のように黒猫が来たのかを尋ねていたといいます。
最期の言葉は「ばあさん、あの黒い猫はきているだろうなぁ」だったといいます。
黒猫は、最後には沖田を看取ってあげたのでしょうか…。
参考:ねこのきもちWEBMAGAZINE、『新選組興亡史』
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan