どこの会社でも、会議のときの席順には気をつかうものです。大抵は、役職の順に上座から座ることが暗黙の了解になっており、社長は奥の真ん中が定位置ですね。
戦国時代の軍議も似たようなもので、総大将がドッカリと上座の真ん中に座るのが常でした。
そして、領地の多い家臣や、家来になった時期の早い武士などから総大将に近いところに座っていました。
ところが、上杉謙信の軍では軍議の席順は実力本位で決まっていました。「感状」の数の多い武士から上座に座ることになっていたのです。
上杉謙信(Wikipediaより)
感状はいわば賞状のようなもので、主として軍事面において特別な功労を果たした下位の者に対して、上位の者がそれを評価・賞賛するために発給した文書のことです。
武士が自分の家臣の忠義を賞賛することを御感(ぎょかん)といい、これを書状化したことから感状と呼ばれるようになったと考えられています。
■江戸時代でも、旧日本軍でも…
感状は、古くは鎌倉時代から見られ、武将に対して、主君や高位の官職にある者がその武勲を称えて下賜しました。今日の表彰と同じようなものと言えるでしょう。
感状は主君や高位者の直筆・花押によって書かれていたようです。例えば室町幕府将軍による感状は御教書形式であり、公文書としての価値も有していました。
感状は武人としての力量の裏付けと見なされたため、武士の地位や所属の変動が頻繁だった戦国時代には特に重視され、再仕官の際にも重要なものだったようです。
ちなみに少し時代は下りますが、江戸時代でも武功を立てた者などに引き続き感状が出されています。
大坂の陣でも多くの感状が幕府などから出され、一番槍を果たした池田忠雄配下の横川重陳が得た感状の例では、徳川家康直々の花押入りのものとなっています。
さらに近代では、旧日本軍で司令官や高級団隊長などの高級指揮官が、顕著な戦功を挙げた隷下部隊や将兵に対して賞状の形で贈られていました。
■いざこざの火種になることも
戦国時代に話を戻すと、感状は合戦の際に一番槍を上げたり、めざましい働きをした侍に主君から贈られました。その数の多い者が、より上座に座ることができたのです。
会社でいえば、ヒット商品を多く企画した社員や、抜群の営業成績を誇る社員が、社長の近くに座ることになるようなものです。
上杉軍の場合、感状の数が同じ武将の場合は、次に領地の広さが基準となり、それで領地の広さも同格なら、年長のものが優遇されたといいます。

上杉謙信像(山形)
他の大名の間でも、古くは家筋を重視しており、主君の親族らが上座に座っていました。ついで譜代の家臣が座ったようです。
しかしそういう風習を残しつつも、戦いが激しくなるにつれて実力主義を取り入れるケースが増えていきました。
ただ、現代の企業でも「その程度の企画で評価されるなら、オレの営業成績ももっと評価してほしい」という人がいるように、戦国時代も軍功の評価をめぐってよく揉めたようです。
それが、下剋上や裏切りの新たなきっかけになることも珍しくありませんでした。
参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia
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